トマス・ミュンツァー

トーマス・ミュンツァー:1489年ハルツのシュトルベルク生まれ、1525年5月27日ミュールハウゼン(テューリンゲン)で処刑される。ドイツ出身。説教師。1525年の農民戦争の指導者。

出自、教育、宗教改革以前の活動

マルティン・ルター同様、トーマス・ミュンツァーも鉱山業の盛んなハルツ伯領出身である。シュトルベルクにおいて、15世紀以降の記録からこれまでに確認されているミュンツァー姓の者の大半は都市の上層に属し、伯家とも職業上のつき合いがあった。ミュンツァーの両親についてはまだ分かっていない。また、社会的環境が、彼の成長にどのような影響を与えたかも不明である。学校教育はおそらくクヴェドリンブルクで受けたと推測される。1506年から07年にかけての冬学期のはじめに、「クヴェドリンブルク出身のトーマス・ミュンツァー」として、ライプツィヒ大学に学籍登録されているからである。フランクフルト・アン・デア・オーデル大学には、1512年から13年にかけての冬学期のはじめに、「シュトルベルクのトーマス・ミュンツァー」として登録されている。彼の大学での勉学の期間や内容についてはほとんど知られていない。教師や学友との交流についても同様である。学芸修士(1515年に最初の言及)と聖書学士(1521年に最初の言及)の学位取得についても、大学側の証拠は全く存在しない。両大学で学ぶ合間の時期に、彼はおそらくアッシャースレーベンとハレで、当時の学生が良く行ったように、一時的にラテン語学校教師職に就いていた。ハルバーシュタット司教区の聖職者に叙階された後の1514年5月6日には、ブラウンシュヴァイク市参事会より、ミヒャエル教会の祭壇禄を提供されたが、これは乏しい禄であった。これと並行して、このハンザ都市において、社会的に上昇しつつあった遠隔地商人や手工業者たちに個人的に教えていた可能性もある。彼らは中世後期の民衆的・俗人中心的神秘主義の影響の下、より深く聖書に根ざした信仰を求めミュンツァーの周りに集まっていた。1515年から16年にかけては、アッシャースレーベンに近いフローゼの共唱祈祷女子修道参事会の使徒座知牧長を勤めた。ここで彼は、少数の修道参事会の聖職者の面倒を見た。同時にブラウンシュヴァイクにおいても、サークルに集った市民の子弟たちに教授した。1517年になるとヨハン・テッツェルの活動によって、贖宥状問題がブラウンシュヴァイクでも議論されるようになった。そこでミュンツァーは、ルター以前に、すでに贖宥状に対し批判的立場を取っていた。彼がそのことによってブラウンシュヴァイクを去らねばならなくなり、贖宥状について明確な理解を得ようとヴィッテンベルクに向かったのかどうかは、確実ではない。

ヴィッテンベルク宗教改革者との断固たる共闘

ミュンツァーは、1517年から19年にかけてのヴィッテンベルク滞在(フランケンへの旅により幾度か中断)を、人文主義や神学の研究のために利用した。そこで彼は初期宗教改革運動に加わり、その代表者たちと接触するようになった。1519年の復活祭には、ユーテルボークの説教師フランツ・ギュンターに代わって説教を行った。ギュンターは当地のフランシスコ修道会士たちと衝突していた。ミュンツァーの真摯な初期宗教改革的教会批判は、ライプツィヒ討論に先行するこの衝突をさらに激化させたが、そこでミュンツァーはルターの支援を受けた。彼の個人的な使命感が最初に見て取れるのは、1519年にヴァイセンフェルス近郊のボイディッツにあるシトー会女子修道院において、聴罪司祭の職に就いてからのことである。ここで彼は、古代の著作家やアウグスティヌスをはじめとする教父たちの著作、初期教会の歴史、さらにはコンスタンツとバーゼルの公会議の議事録を集中的に研究する暇を得た。

ルターの推薦を受けて、ミュンツァーは1520年5月にツヴィカウの聖マリーエン教会で、改革派人文主義者ヨハネス・エグラーヌスの代理としてしばらく説教師を務めることになった。彼は、経済・教育の中心地として重要であったツヴィカウでのこの代理職を、宗教改革を徹底的に説くようにとの召命と理解した。早くも彼の最初の説教が、有力なフランシスコ修道会士たちとの間にひと悶着起こすこととなった。この争いは市参事会およびザクセン選帝侯の代官によって仲裁された。エグラーヌスが戻ってきた後、ミュンツァーは、市内で二番目に重要であった聖カタリーネン教会において、空席となっていた説教師の職に就いた。この二つの教区の間には、本質的な社会的違いはなかった。エグラーヌスが宗教改革をエラスムス的に解釈していたのに対し、ミュンツァーは、使徒時代を指向し、聖霊のはたらきの下で経験される信仰の確信を説いた。織物工ニコラウス・シュトルヒに率いられ、ミュンツァーの周りには、改革的な覚醒信仰を持った俗人集団が集まるようになった。彼らは幼児洗礼を批判し、黙示録的な期待を抱いていた。それに対しエグラーヌスとその説教に集う人々は、より伝統的な改革キリスト教会を支持した。ミュンツァーの信奉者たちは、エグラーヌスやその信奉者を、新たな福音を否定するうわべだけの改革者だと非難し、争いを二極化した。1521年4月16日にミュンツァーは市参事会より解任され、これにより、宗教改革運動内部で起きた最初の分裂から生じた緊張が、さしあたり緩和された。

ミュンツァーはツヴィカウを去り、不屈の使命感を抱いたままボヘミアに向かった。彼は、そこにはより良きキリスト教徒がいると、早くから信じ込んでいた。彼は、神より遣わされた預言者として、ボヘミアのキリスト教徒たちを獲得しようとした。神の審判を目前にして、使徒時代を模範に教会の浄化を始めるためであった。当初彼は、プラハ大学の人々からヴィッテンベルク宗教改革の立場をとると見なされたらしい。激しさを増した反教権主義的論駁と彼の思想の核心(キリストのまねび、神の生きた言葉の体験、原始の純粋な形でのキリスト教会の再興)を、彼は1521年11月に「プラハ宣言」に書き記した。この宣言には、ラテン語、ドイツ語(二種類)、チェコ語の四つの版がある。彼は限られた聴衆しか獲得できず、また監視下に置かれたため、その年が終わらないうちにボヘミアを去らねばならなくなった。その後1522年の終わりまでについてはミュンツァーが、その使命を果たすための職と新たな拠点を見つけようとした痕跡が窺えるのみである。1522から23年にかけて、彼はハレの近郊グラウハのシトー会女子修道院の助任司祭の職を得た。ただそこも三ヶ月後には再び去らねばならなかった。

最後の審判を間近にした選ばれた人々の共同体

1523年の復活祭までにミュンツァーは、ザクセン選帝候領の飛領地であるアルシュテットにおいて、新市区の主教会の司祭職に就いていた。彼はすぐに、まだ実行されていなかった礼拝式の改革に着手した。彼は、ラテン語のミサ典礼書からドイツ語ミサ規定を、ラテン語の定時課から、五つの教会季節(訳注:待降節、降誕節、受難節、復活節、聖霊降臨節)それぞれについてのドイツ語聖務日課を翻訳した。この最初の完全でドイツ語による、また既に実践されていた礼拝式を、彼はおそらくその年のうちにアイレンブルクのニコラウス・ヴィーデマーのところで出版しようと準備していた。彼はアルシュテットでいち早く地歩を占め、元修道女オティリエ・フォン・ゲルゼンと結婚した。そしてアルシュテットの新市区の主教会を、選ばれた人々の共同体へと転換した。ルターとの新たな接触は失敗したが、アンドレアス・カールシュタットとの接触は成功した。彼の礼拝式は間もなく、周辺地域全体から人々を強く引きつけるようになった。このことは、宗教改革に反対する統治権力を不安にさせた。特に1523年5月に、帝国統治院を通して発せられた最新のヴォルムス勅令がザクセンの諸侯のもとに届いた時には。このような状況を背景として、おそらくミュンツァーによる最初の出版物『シュトルベルクの兄弟たちに宛てた公開書簡』(1523年)が著された。ここで彼が強調したのは、キリストによる支配の到来が、選ばれた人々によって達せられる真の信仰を前提とするということであった。

1523年9月になると、ミュンツァーは、ヘルトルンゲンのマンスフェルト伯エルンストと公然と衝突するようになった。マンスフェルト伯が臣民に対して、アルシュテットの「異端的」な礼拝式に赴くことを繰り返し禁止し、それに対抗してミュンツァーが、伯は福音の敵だと公言したことに端を発していた。選帝侯がこの件に巻き込まれると、ミュンツァーは、説教という神から与えられた使命と、最後の審判までという期限つきの諸侯の保護義務を引き合いに出し、自らを正当化した。礼拝式改革を擁護するために、ヴィーデマーのところで『アルシュテットのドイツ語礼拝・秩序と解説』という彼の著作が出版された。その中で彼は、ミサ、洗礼、婚礼、病人への聖体拝領、埋葬について説明した。ミュンツァーはアルシュテットで幼児洗礼を依然として授けていたが、代父に対して、年少者への信仰教育に対する責任の自覚を強く促した。年に一度の洗礼式の導入や、6~7歳までの洗礼先送りについての考察が伝えられているが、それがアルシュテット時代のことであったのかは、確かではない。ミュンツァーの礼拝式改革と説かれた教えをめぐる争いは、おそらく、1523年11月4日から14日にかけて、選帝侯フリードリヒとその随行団が、ニュルンベルク帝国議会への旅の途上にアルシュテットの城に滞在している間にようやく明るみに出たと推測される。このことをきっかけに、批判的なパンフレット『信仰の表明または提言』(1523年)が出版されたとも考えられる。最後の小著『でっちあげの信仰について』(1523年)も、アルシュテットの城での「教義をめぐる討論」の補遺として出版されたのであろう。ここで彼が求めたのは、教えこまれた(でっちあげの)信仰が、キリストの受難に倣うことによってのみ到達される真の信仰に取って代わることであった。

1524年春にエルネスト系の領邦君主が新たに介入した。ミュンツァーの信奉者たちが近郊のマラーバッハ野外礼拝堂を焼き払い、その礼拝堂を所有するナウンドルフ修道院の女子修道院長が、犯人の処罰を求めたからである。アルシュテットの市参事会と徴税官ハンス・ツァイスは、調査を長いこと先延ばしにしていた。6月になってようやく、ヨハン公からの圧力を受けて一人の市参事会員が逮捕された。市外から礼拝式に訪れていた者たちは、ますます統治権力からの報復の脅威にさらされるようになり、アルシュテットへ逃れてきた者も引き渡しを覚悟しなくてはならなかった。アルシュテットの人々は、外部からの介入に対して抵抗しようとした。ミュンツァーは、脅威がさらに高まるのを防ごうと、また選ばれた人々を守るためにも、領邦君主たちを味方につけようとした。彼は7月13日にアルシュテットの城において、ヨハン公とその随行団の前でダニエル書第二章について説教を行った。世界帝国の没落、代わって興隆するキリストの支配、そしてその際の統治者に課せられた役割を説いた。「御前説教」という呼称で知られるこの注目すべき説教は、すぐさまアルシュテットで印刷された。アイレンブルクの印刷所が閉鎖された後、ミュンツァーは同地に印刷所を新設していた。すでに1523年の夏にミュンツァーは、密かに彼の追従者を集めて同盟を結んでいた。そしてこの緊迫した状況の中で、7月24日に防衛のための同盟が公然と結成された。この同盟には市外の者も属し、他の地域への拡大も試みられた(例えばオルラミュンデ)。これに対してルターは、『暴動を起こす霊の持ち主について、ザクセン諸侯に宛てた手紙』(1524年)で応えた。この中でルターは、暴力を辞さないような説教師を領邦から追放するよう求めた。1524年7月末から8月初めにかけてヴァイマルの宮廷では、ミュンツァー、市参事会、徴税官への審問が行われ、その結果ミュンツァーは、同盟の解散と印刷工の解任を勧告された。市参事会と徴税官を自分の側に引き入れることに失敗した後、ミュンツァーは8月7日から8日にかけての夜に市を後にした。その後ミュンツァーは、8月半ば以降に帝国都市ミュールハウゼンにおいて、元シトー修道会士ハインリヒ・プファイファーと共に、宗教改革運動を基盤に、選ばれた人々の共同体を再び築こうとしていた。ミュンツァー、あるいは彼も関与して作成された「11箇条」の中では、新しい市参事会が求められた。おそらく市政府との対立が先鋭化していった中で、軍事的に組織された「神の永久同盟」も結成されたと推測される。しかし市参事会は、近郊の農民を動員し、10月初めにミュンツァーとプファイファーを追放することに成功した。

ミュンツァーの『信仰の表明または提言』と『でっちあげの信仰について』は、最初の再洗礼派であるチューリヒのコンラート・グレーベルらの手に渡った。グレーベルたちと懇意にしていたハレのハンス・フイウフを通じて、彼らはアルシュテットでのミュンツァーの活動についてさらに情報を得ることになった。9月初めにグレーベルは、そのグループの名前で、「キリストにおける兄弟」ミュンツァーに宛てて、彼と「今後相互に対話をする」ために手紙を送った。従来の幼児洗礼を批判した他の著作者、特にアンドレアス・カールシュタットとヤーコプ・シュトラウスの場合と同様に、グレーベルたちは、ミュンツァーの著作の中にも自分たちとの共通性を見出していた。とりわけ、キリストの受難に倣うことで得られる真の信仰、幼児洗礼批判、熱意のない宗教改革者への排撃、使徒時代を規範とする教会の浄化が強調された。同様に、儀式の効力、宗教改革を貫徹するうえでの暴力の使用といった疑念についても、彼らは沈黙したままではいなかった。ここでの力点は、一人の急進的な宗教改革者への批判ではなく、対話の相手を探し求めることに置かれていた。ミュンツァーはすでにアルシュテットを離れていたために、おそらくこの手紙は彼のもとには届かなかったであろう。そして対話は実現しなかった。

反乱民への期待:最後の審判における神の道具

ミュールハウゼンを追放された後のミュンツァーの足跡は、ようやくニュルンベルクにおいて再び確認される。ハンス・フートを介して印刷されたアルシュテットでの著作の改訂版『まやかしの信仰のあからさまな暴露』(1524年)は、10月にニュルンベルク市参事会によって押収された。12月には、ミュンツァー自身で印刷所に持ち込んだルターに対する報復の書『きわめてやむを得ざる弁護論』(1524年)も同様に押収された。ニュルンベルクにおいても、またその後のバーゼルの宗教改革者エコランパディウスとの会合においても、ミュンツァーは公に姿を現さなかった。チューリヒの最初の再洗礼派との接触は証明できないが、ヴァルツフートのバルタザール・フープマイアーを訪問したことは考えられる。ミュンツァーが、クレットガウでの農民反乱運動のために、『いかに支配すべきかに関する箇条書』を起草した可能性もある。おそらく彼は、定められた統治権力がその使命の引き受けを拒否した今、反乱民を神の裁きに向けて招集された道具だと見なしたのであろう。1525年2月に彼はミュールハウゼンに戻り、マリーエン教会の主任司祭となって、間近に迫った最後の神の裁きを前に、選ばれた人々からなる共同体形成をさらに先へと進めていった。「11箇条」に基づいて新しい市参事会、すなわち「永久市参事会」が選出された。4月末に反乱がテューリンゲンまで広がった時、ミュンツァーはそこに神の決定を見た。いよいよ既存の秩序は廃絶され、選ばれた人々の背神者からの分離が始まるのであった。彼は、アルシュテットでのかつての同盟参加者、そして全ての信仰者に、神の意志に従い蜂起に参加するよう呼びかけた。アイヒスフェルトへの、要請を受けての短い行軍の後、ミュンツァーは、反乱軍からの危急の援軍要請に応じて、ミュールハウゼンで動員した兵力の半数を従えフランケハウゼンに赴いた。そこにテューリンゲンの反乱軍が集結していた。近づきつつあったヘッセン・ザクセンの諸侯軍との決戦(農民戦争)が待ち構えていた。前日の小競り合いの後、5月15日に両軍は相対した。戦闘の経過ははっきりとは分からない。反乱軍の大半は、ほとんど抵抗することもなく殲滅された。ミュンツァーは逃亡中に捕らえられ、ヘルトルンゲンの城に拘留された。一度審問を受けた後、ハインリヒ・プファイファーと共に、ミュールハウゼン郊外の諸侯の軍営で処刑された。その前に、ミュールハウゼンの人々に戦いの終結を求めていた。反乱軍は結局のところ自己の利益を追求したが故に敗北したのであり、自らの死を、神の意志に服従しなかった民衆の罪への贖いと理解した。しかし、彼は神から与えられた自らの使命を疑うことはなかった。

独自の宗教改革神学

ミュンツァーの使命感の神学的枠組みを明確に定めることはできない。大学で学んだ宗教改革神学者として、旧教会の宗派的伝統(三位一体の教理)を尊重したが、力点のおき方に独自性があった。彼の説く教えの主眼は、「でっちあげの」信仰の化けの皮を剥ぐこと、キリストに倣い真の信仰へと向かう全ての人間が、避けることのできない苦難に満ちた道を歩き続けること、神の裁きの到来を告げること、そして、神が人間を、人間が被造物を直接支配するという、原初の神の秩序を再興するために尽力することであった。論拠を示すにあたって、ミュンツァーは聖書に立ち返った。彼は初期キリスト教会を模範として、聖書を「一つのもの」として理解した。彼においては、使徒時代は全体として、他のほとんどすべての宗教改革神学者においてよりも、規範として強く作用した。救済の過程を描写する際に、彼は中世後期の神秘主義的思想や表現を用いた。最後の審判とその後の世界について告げる際にも、黙示録的伝統の構成要素を利用した。ミュンツァーは、これらの伝統的な諸要素を相互に結合させ、人間の内奥での救済過程の表象と、到来しつつある最後の審判に備えての世界形成とを結びつけたのである。被造物への畏れは、神への畏れによって取り除かれるのであり、その根底において求められるのは、被造物への畏れから成り立っている既存の秩序に断固として抵抗することであった。

影響

ミュンツァーの強調する信仰の体験、伝統的な洗礼や身分制秩序に対する批判、使徒時代への回帰志向などは、ルター派やツヴィングリ派の宗教改革運動と並んで、カトリックに代わる別の信仰のあり方が影響力を及ぼしていた所では、すでに早くから受け入れられていた。ミュンツァーの著作『でっちあげの信仰について』は、タイトルが変えられ、クリスティアン・ヒッツ・フォン・ザルツブルクという匿名で、1526年にアウクスブルクで出版された。著作の写しは、1531年になっても依然として再洗礼派の間で出回っていた。セバスティアン・フランクやヴァレンティーン・ヴァイゲルのような心霊主義者たちもミュンツァーの著作を知っていた。ニュルンベルクの再洗礼派ハンス・デンクも同様であった。後にゴットフリート・アルノルトも、留保なしではないにしても、新たにミュンツァーを受容した。ミュンツァーが農民戦争に参加したことは、とりわけヴィッテンベルクで出版された一連の反駁書を通じて、後世まで記憶されることになった。その結果20世紀に至るまで、熱狂主義者や反乱者の原型と見なされた。再洗礼派運動とミュンツァーとの間には密接な関係があったという捉え方は、前世紀まで支配的であったが、その根拠となっていたのは、18世紀になって初めてその存在が知られるようになったグレーベルの手紙ではない。このことに責任を負うのは、―ミュンツァーとミュンスター再洗礼派王国とを推測で結びつけるような見方とともに―とりわけ、再洗礼の起源をツヴィカウの預言者たちのグループに求め、ミュンツァーをニコラウス・シュトルヒの弟子だと見なすメランヒトンの見解と、ハインリヒ・ブリンガーによる再洗礼派の記述であった。特に中・上部ドイツの再洗礼派については、ハンス・フートを通してミュンツァーの影響を受けていたことが、近年の研究によって立証された。「ミュンツァーの遺産」(ゴットフリート・ゼーバース)というフートの呼称は的を射ている。

トーマス・ミュンツァーは、プロテスタントの礼拝式の歴史、キリストの模倣という深い信仰心、そして統治権力への批判と抵抗権を芽生えさせるような教育にその影響が及んでいるのであり、歴史全体を通してその重要性が認められるべきである。

史料

Thomas Müntzer. Schriften und Briefe. Kritische Gesamtausgabe, unter Mitwirkung von Paul Kirn hg. von Günther Franz, Gütersloh 1968. – Thomas-Müntzer-Ausgabe. Kritische Gesamtausgabe, hg. von Helmar Junghans, Bd. 2: Briefwechsel, bearb. von Siegfried Bräuer und Manfred Kobuch, Leipzig 2010; Bd. 3: Quellen zu Thomas Müntzer, bearb. von Wieland Held und Siegfried Hoyer, Leipzig 2004. – The Collected Works of Thomas Müntzer, hg. und übersetzt von Peter Matheson, Edinburgh 1988.

二次文献

Marion Dammaschke und Günter Vogler, Thomas-Müntzer-Bibliographie (1519-2012), Baden-Baden 2013. – Gottfried Seebaß, Art. Thomas Müntzer, in: Theologische Realenzyklopädie 23, Berlin 1994, 414-436 (Lit.). – Max Steinmetz, Das Müntzerbild von Martin Luther bis Friedrich Engels, Berlin 1971. – Ingo Warnke, Wörterbuch zu Thomas Müntzers deutschen Schriften und Briefen, Tübingen 1993. – Carl Hinrichs, Luther und Müntzer. Ihre Auseinandersetzung über Obrigkeit und Widerstandsrecht. Berlin 1952. – Manfred Bensing, Thomas Müntzer und der Thüringer Aufstand 1525, Berlin 1966. – Hans-Jürgen Goertz, Innere und äußere Ordnung in der Theologie Thomas Müntzers, Leiden 1967. – Walter Elliger Thomas Müntzer. Leben und Werk. 3. Aufl., Göttingen 1976. – Reinhard Schwarz, Die apokalyptische Theologie Thomas Müntzers und der Taboriten, Berlin 1977. – James M. Stayer und Werner O. Packull (Hg.), The Anabaptists and Thomas Müntzer, Dubuque, Iowa, 1980. – Max Steinmetz, Thomas Müntzers Weg nach Allstedt, Berlin 1988. – Ulrich Bubenheimer, Thomas Müntzer. Herkunft und Bildung. Leiden 1989. – Siegfried Bräuer und Helmar Junghans (Hg.), Der Theologe Thomas Müntzer. Untersuchungen zu seiner Entwicklung und Lehre. Berlin und Göttingen 1989. – Hans-Jürgen Goertz, Thomas Müntzer. Mystiker, Apokalyptiker, Revolutionär. München 1989 (engl. und jap.). – Günter Vogler. Thomas Müntzer, Berlin 1989. – Tom Scott, Thomas Müntzer. Theology and Revolution in the German Reformation. Houndmills und London 1989. – Abraham Friesen, Thomas Muentzer, a Destroyer of the Godless. The Making of a Sixteenth Century Religious Revolutionary. Berkeley, Los Angeles und Oxford 1990. – Siegfried Bräuer, Spottgedichte, Träume und Polemik in den frühen Jahren der Reformation, hg. von Hans-Jürgen Goertz und Eike Wolgast, Leipzig 2000. – Gottfried Seebaß, Müntzers Erbe. Werk, Leben und Theologie des Hans Hut. Gütersloh 2002. – Günter Vogler, Thomas Müntzer und die Gesellschaft seiner Zeit, Mühlhausen 2003. – Günter Vogler (Hg.), Bauernkrieg zwischen Harz und Thüringer Wald, Stuttgart 2008.

ジークフリート・ブロイアーSiegfried Bräuer
(翻訳:永本哲也Tetsuya Nagamoto、翻訳協力:早川朝子 Asako Hayakawa)

出典: Mennonitisches Lexikon, Bd. 5, Teil 1, hg. von Hans-Jürgen Goertz, 2010 (www.mennlex.de)

Происхождение, образование, деятельность до Реформации

Мюнцер, Томас (Фома), родился около 1489 г. в Штольберге (Гарц) (Stolberg, Harz), казнён 27 мая 1525 г. в Мюльхаузене (Тюрингия) (Mühlhausen, Thüringen), Германия; проповедник времён Реформации и руководитель повстанцев в Крестьянской войне 1525 г.

Происхождение, образование, деятельность до Реформации

Подобно Мартину Лютеру (Martin Luther), Томас (Фома) Мюнцер был выходцем из графства Гарцского, в чьей экономике преобладал горно-добывающий промысел. Документально подтверждено, что горожане по фамилии Мюнцер проживали в Штольберге ещё с XV века. Мюнцеры принадлежали к городской верхушке и служили на профессиональных должностях при графском дворе. До сих пор не установлено, кем были родители Фомы. Как и неясно, в какой социальной среде он рос. Фома посещал школу, вероятно, в Кведлинбурге (Quedlinburg), так как в начале зимнего семестра 1506/07 года он под именем «Томас Мунцер де Куедилбурк» („Thomas Munczer de Quedilburck“) был среди зачисленных в Лейпцигский университет (Leipzig). В списках же университета во Франкфурте-на-Одере (Frankfurt an der Oder) Фома стоит к началу зимнего семестра 1512/13 года. В них он упомянут уже как «Томас Мюнцер Штольбергензис» („Thomas Müntczer Stolbergensis“). О продолжительности учёбы и о том, какого она была характера, так же мало известно, как и о контакте университетских преподавателей со студентами. О присуждение Мюнцеру звания «магистра артиума» (Magister artium) (в 1515-м году) и степени «бакалавра библикуса» (Baccalaureus biblicus) (в 1521-м году) тоже не сохранилось никаких письменных свидетельств. Предполагают, что в каникулярных «окнах» между учёбой в университетах Фома подрабатывал школьным учителем латыни в Галле (Halle) и Ашерслебене (Aschersleben). В епископстве Хальберштадт (Halberstadt) он был рукоположен в священники. Шестого мая 1514 года городской совет Брауншвейга (Braunschweig) назначил Мюнцера на малодоходную должность пастора при алтаре церкви св. Михаэля. Возможно, что именно в этом ганзейском городе Фома занялся религиозным просветительством, обучая группу из ремесленников и странствующих купцов. Находясь под «гипнозом» позднесредневековой народной мистики, эти собиравшиеся на уроки Мюнцера люди искали, можно сказать, новую смиренную форму религиозности, которая бы опиралась на библейские основы. В 1515/16 годах Фома становится префектом женского монастыря Фрозе (Frose) под Ашерслебеном. Здесь он опекает нескольких монастырских воспитанниц, давая побочно уроки сыновьям бюргеров, знакомых ему по Брауншвейгу. В 1517 году, когда возник скандал вокруг монаха Иоганна Тетцеля (Johann Tetzel) из-за его злоупотреблений в торговле индульгенциями, Мюнцер в этом вопросе, широко обсуждавшемся и в Брауншвейге, занял критическую позицию прежде, чем Тетцеля осудил Лютер. Покинул ли Фома затем Брауншвейг и отправился ли он в Виттенберг (Wittenberg), чтобы выяснить правду об индульгенциях, это предположение oстаётся догадкой.

Последовательный соратник Виттенбергских реформаторов

Время пребывания в Виттенберге (1517 – 1519), с неоднократными отъездами во Франконию (Franken), Мюнцер потратил для гуманитарно-богословских изысканий. Он присоединялся к раннереформаторскому движению протестантов, вовсю контактируя с его протагонистами. На Пасху 1519 года в Ютеpборге (Jüterbog) Фома Мюнцер замещал проповедника Франца Гюнтера (Franz Günther), конфликтовавшего с тамошними францисканцами. Мюнцер рьяно критикует уклады католической Церкви, обостряя спор протестующих слоёв. Так Фома находит поддержку в лице Лютера, прославившегося на знаменитом Лейпцигском диспуте. Вера в своё особое призвание у Мюнцера впервые появилась в 1519 году после того, как он вступил в должность духовника цистерцианского монастыря в Беудице (Beuditz), под Вайсенфельзе (Weißenfels). Здесь он начал усиленно изучать работы античных богословов, отцов Церкви, особенно Блаженного Августина. Он штудирует историю ранней Церкви и акты реформационных соборов в Констанце и Базеле.

В мае 1520 года Мюнцер, по рекомендации Лютера, начал на кафедре Цвикаусской (Zwickau) церкви св. Марии временно замещать реформатора-гуманиста Иоганна Эгрануса (Johann Egranus). Цвикау был важный экономический и образовательный центр Германии. В нём Фома осознал это богослужебное «заместительство» как призыв к неустанной последовательной реформаторской деятельности. Уже первая проповедь Мюнцера вызвала бурю негодования у влиятельных францисканцев, но разлад был улажен Цвикаусским горсоветом и «амтманом» из службы курфюрста. После возвращения Эгрануса на свою кафедру Фоме предоставили свободное место проповедника в церкви св. Екатерины – второй по величине в Цвикау. Между прихожанами этих двух церковных приходов не было больших социальных различий. Но в противоположность Эгранусу, ратовавшему за эразмианский гуманизм, проповеди Фомы ориентировались на духовность Апостольского времени и призывали верующих – с содейства Святого Духа – самим удостовериться в своей вере.

Под руководством здешнего портного Николауса Шторха (Nikolaus Storch) Мюнцер объединил вокруг себя группу верующих профанов, которые смиренно уповали на Бога, не принимали крещения младенцев и были исполнены апокалиптических ожиданий. Прихожане же Эгрануса – напротив – придерживались умеренного реформаторства в традиционном лютеранском духе. И сторонники Томаса Мюнцера гневно осуждали Эгранусову паству, обзывая тех «мнимыми протестантами», не принявшими обновленного Евангелия. Весь город как бы поляризируется. Ситуация делается взрывоопасной. Но 16 апреля 1521 года, по решению Цвикаусского горсовета, Фома был освобождён от должности пастора. И напряженность внутри реформаторского движения, вызвана внутренней дифференциацией, постепенно спала.

Mюнтцер оставил Цвикау. С неизменным чувством уверенности в собственной богоизбранности он отправляется в Богемию (Чехия), где, как он себе вообразил, будто бы есть лучшие христиане. Как пророчествующий раб Божий – он «на пороге Божьего суда» хочет богемских христиан перетянуть в лоно новой – по образцу Апостолов созданной религии. Очевидно, Фома – с самого начала его пришествия в Прагу (Prag) – рассматривался в пражских университетских кругах в качестве посланника Виттенбергских реформаторов. Три главных принципа Мюнцеровых проповедей (следование за Христом, переживание Бога на личном опыте и восстановление на Земле изначального – Божественного – миропорядка) были с острой антиклерикальной полемичностью изложены Фомой в ноябре 1521-го – на латыни, по-немецки и по-чешски – в одном из его посланий. Однако голос Томаса был в Праге мало кем услышан. Недоверчивые власти взяли Фому под надзор, вынудив его, ещё до наступления Нового года, покинуть Богемию. До конца 1522-го Мюнцер пытается обрести «второе дыхание» для своей богоизбраннической миссии. На рубеже 1522 года он получает место капеллана в цистерцианском монастыре Глауха (Glaucha) при саксонском городе Галле, которое ему, впрочем, пришлось тоже покинуть три месяца спустя.

Община «избранных» – в преддверии Божьего суда

Тем не менее перед Пасхой 1523-го Фома становится пастором в Нойштадткирхе, находившейся в курфюрстско-саксонском анклаве Альштедт (Allstedt). И немедленно проводит изменения в уставных правилах и распорядках проведения мессы – на новый лад. Сделав переводы из Литургии часов и Римской миссалы, Мюнцер практикует проведения еженедельных богослужб не на латыни, а на немецком языке. В полном виде эти уставные правила, применяемые для всего литургического года, Фома собирался, вероятно, в том же 1523-м году издать у Николауса Видемара (Nikolaus Wiedemar) в Эйленбурге (Eilenburg). Мюнцер быстро освоился в Альштедте, женился на Оттилии фон Герсен (Ottilie von Gersen), бывшей монахине, и провёл перестройку Нойштадткирхе, переоборудовав её для Общины «избранных». Возобновить переписку с Лютером Фоме не удалось, зато была достигнута договорённость с Андреасом Карлштaдтом (Andreas Karlstadt). Вскоре Мюнцеровы мессы стали магнитом для всего региона. Тех окрестных cветских властей, кто был противником Реформации, это забеспокоило. Их бес-покойство усилилось к маю 1523-го, когда действительный мандат по Вормсскому эдикту (Wormser Edikt) был от императора Священной Римской империи передан Саксонскому курфюрсту. В связи с этим, возможно, и сочинил Мюнцер своё «Открытое письмо дорогим братьям в Штольбергу, сторонится от непристойных волнений» (Ernster sendebreff an seine lieben bruder zu Stolberg unfuglichen auffrur zu meiden). В сём письме Фома подчеркнул, что наступление Царства Христа требует от верующих истинной веры, которая открыта только лишь избранным.

В сентябре 1523-го всё это перерастает в открытую вражду с графом Эрнстом фон Мансфельд в Гельдрунгене (Ernst von Mansfeld auf Heldrungen). Граф многократно воспрещал своим верноподданным ходить на «еретические» богослужения Мюнцера в Альштедте. За что тот проклял графа как врага Евангелия. Когда вмешался курфюрст, Фома оправдался тем, что – мол – это его, Мюнцера, «задание» от Бога: проповедовать ради защиты самого курфюрста, срок чьего правления тоже находится в руках Божьих. В защиту церковной реформы была выпущена у книгопечатника Видемара статья «Порядок и расчеты порядка немецкого приказного дома в Альштедте» („Ordnung vnd berechnunge des teutschen ampts zu Allstadt“) (1523). Таким образом Фома растолковал правила, по каким должны совершаться месса, крещение, бракосочетание, ужин у больных и похороны. В Альштедте Мюнцер ещё крестил младенцев, но ответственность за эти крещения он возлагал на их крёстных, говоря, что теперь они отвечают за воспитание своих крестников. Были ли тогда в альштедтскую бытность Томасом Мюнцером введены протестантские обряды – ежегодный ритуал крещения только в определённый срок или, скажем, дозволение крестить детей не раньше 6- или 7-тилетнего возраста? Есть предположение, что свара из-за реформы богослужения и Мюнцеровых отповедей возникла во время альштедтского визита курфюрста Фридриха Мудрого, гостившего со всей свитой с 4-го до 14-го ноября 1523 года в замке Альштедт. Не исключено, что эта свара с курфюрстом и дала Фоме повод для написания трактата «Протестация … » (Protestation odder empietung Tome Mu(e)ntzers von(n) Stolberg am Hartzs seelwarters zu Allstedt seine lere betreffend vnd zum anfang von dem rechten Christen glawben vnnd der taufe) (1523). Вслед за так называемыми «Поучительными речами» в замке Альштедт, Томас Мюнцер сделал свою последнюю прижизненную публикацию «О поддельной вере» (Von dem gedichten glawben) (1523), в которой он повторял, что поддельную веру необходимо заменить верой истинной, какую человек может выстрадать не иначе, как пострадав за Христа.

В начале 1524-го саксонские ернестинцы были вынуждены реагировать на новые беспорядки, учиненные приверженцами Фомы. Теми была сожжена дотла близлежащая часовня при монастыре Наундорф (Naundorf). И аббатиса требовала наказать виновных за этот поджог. Альштедтский горсовет с казначеем Гансом Цейсом (Hans Zeiß) долго затягивал расследование. Только в июне, под давлением герцога Иоганна, был арестован один из членов совета. Приезжие сторонники Мюнцера всё чаще подвергаются репрессиям со стороны властей. Те беглецы, кто скрывался в Альштетде, могли быть теперь отсюда высланы. Жители Альштедта намерены обороняться от внешнего вмешательства в их внутренние дела. Фома пытается разрядить накаляющуюся обстановку и привлечь сильных мира сего на сторону Совета «избранных». Тринадцатого июля он держит проповедь в присутствии герцога Иоганна со свитой, ссылаясь на Книгу пророка Даниила, где говорится о падении мировых держав, о восхождении Царства Христа и о той роли, что уготована власть предержащим. Эта замечательная проповедь была сразу напечатана в альштедтской типографии, основанной Мюнцером – после закрытия эйленбургского книгоиздательства. Уже летом 1523-го года Фома собирает верных ему людей в тайную группу защитников. И затем, в виду ухудшающегося положения, 24-го июля им открыто формируется Оборонный союз, куда входят «избранные». Радиус действия Оборонного союза широк, он имеет своих представителей в других населённых пунктах (например, в Орламюнде, Orlamünde). Вразрез же Мюнцеру, Мартин Лютер со своим «Письмом к князьям Саксонии o возмутителях духа» (Brief an die Fürsten zu Sachsen von dem aufrührerischen Geist) (1524) настаивал на высылке из Саксонии тех проповедников, кто подстрекает народ к бунту. В конце июля – начале августа 1524-го года, на судебном допросе при Веймаровском дворе (Weimar), Мюнцеру вместе с главой горсовета и с казначеем Альштедта было приказано: «Оборонный союз распустить, печатника уволить». Попытка Фомы – главу и казначея горсовета «поставить под свои знамёна» – оказалась тщетной. В ночь с 7-го на 8-е августа Мюнцер уходит из Альштедта. С середины августа он вдвоём с бывшим цистерцианским монахом Генрихом Пфейффером (Heinrich Pfeiffer) из движения реформаторов снова намерен в «вольном городе» Мюльхаузене создать Общину «избранных». На основании написанных Мюнцером (или же разработанных при его участии) «Одиннадцати статей» требовалось избрать в Мюльхаузене новый горсовет. По-видимому, из-за обострявшего конфликта с руководством города Фома организовал «Вечный совет», что являлся полувоенным формированием. С помощью крестьян-ополченцев Мюнцер и Пфейффер сумели в начале октября учредить новый горсовет.

Мюнцеровские сочинения «Протестация» и «О поддельной вере» попали в руки к цюрихским протобаптистам с их лидером Конрадом Гребелем (Konrad Grebel). Через кузнеца Ганса Гуйуффа (Hans Hujuff) из Галле они получили другие информации об альштедтских брошюрах Мюнцера. Гребель от имени своей группы писал в начале сентября к Мюнцеру, как «Собрат во Христе», прося того «о встрече». Как и у других критиков принятого у католиков крещения младенцев, в частности у Андреаса Карлштaдта и Иакова Штраусса (Jacob Strauß), цюрихцы обнаружили много с ними общего в писаниях у Мюнцера. В его учении бросались в глаза, прежде всего, следующие особенности: выстраданная истин- ная вера, критика крещения младенцев, осуждение «половинчатых» реформаторов, очищение Церкви по Апостольскому образцу. Но свои опасения цюрихцы тоже не замалчивали. Особен- но того, что касалось переоценки значения протестантских церемоний и в вопросе применения насилия ради победы Реформации. Упор же был ими сделан на приглашение к диалогу, а не на шельмовании радикального реформатора. Письмо до Мюнцера не дошло. Может быть, потому что он уже уехал из Альшедта. Его диалог с цюрихскими протобаптистами так и не состоялся.

Надежда на повстанцев как на орудие Божьего правосудия

След Фомы, изгнанного из Мюльхаузена, отыскивается в Нюрнберге (Nürnberg). Там Ганс Хут (Hans Hut) помогает Фоме в издании переработанного альштедтского сочинения Мюнцера «Изобличение поддельной веры недоверчивого мира» (Außgetrückte emplössung des falschen Glaubens der ungetrewen welt) (1524). Но в октябре 1524 года весь тираж этого издания был конфискован Нюрнбергском горсоветом. А в декабре такая же судьба постигла и другое произведение Мюнцера, которое он самолично сдал в печать: «Высокочтимый учинил защитную речь и ответ супротив бездуховной сладкопочивающей плоти из Виттенберга» (Hoch verursachte Schutzrede und antwort wider das Gaistloße Sanfftlebende fleysch zu Wittenberg) (1524). В этом писании Фома «рассчитался» с Лютером, порвав с лагерем лютеранцев. Но ни в Нюрнберге, ни на последующем заседании с базельским реформатором Оеколампадом (Oekolampad) Фома не выходил «на люди», избегая публичных выступлений. Факт его встречи с цюрихскими протобаптистами тоже не установлен. Однако не исключено, что Мюнцер встречался с Валтасаром Губмайером (Balthasar Hubmaier) в местечке Вальдсхут (Waldshut). Для восставших крестьян в Клеттгау (Klettgau) Фома написал статью «Статья, как надлежит властвовать» (Artigkel, wye man herschen soll). Наверное, в народном восстании он увидел орудие Божьего правосудия, после того как власть предержащие отказались взять на себя возложенную на них от Бога задачу. В феврале 1525 года Фома возвращается в Мюльхаузен, где становится пастором в церкви св. Марии, перестроив её в Общину «избранных», проповедуя: «Божий суд – близок!» После презентации Мюнцеровых «Одиннадцати статей» (Elf Artikel) был в Мюльхаузене избран новый «Вечный Совет» (Ewiger Rat). В конце апреля повстанцы переносят свои боевые действия в Тюрингию. Мюнцер увидел в том знак Божий – необходимость отменить существующий миропорядок, отделив избранных от безбожников. Фома бросил клич бывшим членам альштедтской Общины «избранных», призывая добровольцев присоединиться к нему, дабы исполнить волю Божью. Войско Мюнцера, наполовину состоявшее из мюльхаузенского ополчения, перешло горное плато Эйхсфельд (Eichsfeld), направившись к Франкенхаузену (Frankenhausen) (Тюрингия), где было назначено место сбора для восставших крестьян. Там Мюнцер запросил отовсюду срочную помощь для поддержки повстанцев. И там произошло решающее сражение Мюнцера с коалиционной княжеской армией из гессенцев и саксонских наёмников (Крестьянская война). 15 мая, после произошедшей накануне перестрелки, противники встретились лицом к лицу. Ход сражения нельзя объяснить как-то однозначно. Почти не оказав сопротивления, повстанцы были чуть ли все перебиты. Сам Mюнтцер пытался спастись бегством, но был схвачен и включен в тюрьму замка Гелдрунген. После допроса в княжеском лагере, перед воротами Мюльхаузена, Фома вместе с Генрихом Пфейффером был обезглавлен. Причиной поражения он назвал малодушие повстанцев. Свою смерть он объяснил как искупительную жертву за неповиновения народа, противившегося воле Божьей. Свою же «задачу» – свою богоизбранническую миссию он не поставил под сомнение.

Богословие Реформации с её собственным стилем

Теологические рамки самопознания Мюнцера и его «богоизбранничества» точно не определены. Как академически обученный богослов реформаторского течения он уважал староцерковное учение о Троице, но расставил в нём собственные акценты. В центре его проповедничества стояла сверхзадача – разоблачать «поддельную» веры, привести любого человека – на его страдальческом поприще, т.е. пути – к Христу, возвещать приближающийся суд Божий и, наконец, способствовать восстановлению на Земле прежнего Божественного миропорядка, когда лишь один Бог господствует на всеми земными тварями и людьми. В своих аргументациях Мюнцер опирался на Библию, которую он, по примеру раннехристианской традиции, воспринимал как единое целое. Времена Апостолов имели для Мюнцера большую нормативную значимость, чем для других протестантских богословов. Для описания «процесса человеческого очищения от мирской скверны» Фома пользовался мыслительными формулировками, характерными для средневековых мистиков. Возвещая же скорый Божий суд и наступление справедливого Будущего, Мюнцер брал в свою речь художественные элементы, свойственные для эсхатологического мышления. Фома составил воедино эти разные «камни» традиционалистской мозаики, связав представления об очищающемся человеке с апокалиптическом образом рушащегося мира в преддверии Божьего суда. Существующий миропорядок зиждется на том животном страхе, которые испытывают люди перед «сильными мира сего». Но этот животный страх побеждается страхом Божьим, и только страх Божий должен укрепить в людях силу бесстрашно и решительно бороться с существующим миропорядком.

Историческое наследие

Фома Мюнцер утверждал, что акт веры есть выражение личного религиозного опыта, когда верующие обращаются к Богу напрямую, без церковного посредничества. Он отвергал традиционное крещение и клеймил социальное неравенство с разделением общества на сословия, ссылаясь на вероисповедальную практику раннего христианства. Мюнцеровские идеи альтернативного вероисповедания были восприняты в Западной Европе даже раньше, чем в ней все виды Реформации – и лютеранство и цвинглианство – нашли общественный отклик. Сочинение Томаса Мюнцера «О поддельной вере» – с изменённым заголовком и под псевдонимом «Кристиан Хитц фон Зальцбург» (Christian Hitz von Salzburg) – напечаталось в 1526 году в Аугсбурге. Оно широко курсировало в кругах анабаптистов-перекрещенцев. Писания Мюнцера были хорошо известны таким спиритуалистам, как Себастьяну Франку (Sebastian Franck) и Валентину Вайгелю (Valentin Weigel) и нюренбергскому перекрещенцу Гансу Денку (Hans Denck). Позже Готфрид Арнольд (Gottfried Arnold) заново «оживил» Мюнцера, хотя не без оговорок. Участие Мюнцера в Крестьянской войне сохранилось в памяти потомков благодаря его «Виттенбергских отповедей»». Вплоть до XX века личность Фомы Мюнцера ассоциировалась с образом «мечтателя и мятежника». Однако и до сегодняшних дней не исчезло мнение о нём, что он был тесно связан с движением анабаптистов и что его пример вдохновил Мюнстерскую коммуну. Но повод тому давали не письма Гребеля, «отца» анабаптизма, обнародованные только в XVIII веке. Ответственным за это мнение является, прежде всего, сподвижник Лютера – Филипп Меланхтон (Philipp Melanchthon). По мнению Меланхтона, анабаптизм в Германии привили Цвиккауские пророки во главе с Николаусом Шторхом, а Фома Мюнцер был учеником Шторха. Сходное представление об истоках анабаптизма имел и Генрих Буллингер (Heinrich Bullinger). Силу влияния Мюнцера на средне- и верхненемецкий анабаптизм подтверждают новейшие исторические справки о Гансе Хуте, кто, по словам современного историка богословия Готфрида Зеебасса (Gottfried Seebaß), справедливо назван «наследником Фомы Мюнцера». Без Томаса Мюнцера немыслима практика протестантских богослужений. Он научил протестантов смиренному следованию Христу. От имени народа он впервые посмел перечить власть предержащим. И научил простой народ уметь постоять за себя. Таким путем он имеет общеисторическое значение.

источник

Thomas Müntzer. Schriften und Briefe. Kritische Gesamtausgabe, unter Mitwirkung von Paul Kirn hg. von Günther Franz, Gütersloh 1968. – Thomas-Müntzer-Ausgabe. Kritische Gesamtausgabe, hg. von Helmar Junghans, Bd. 2: Briefwechsel, bearb. von Siegfried Bräuer und Manfred Kobuch, Leipzig 2010; Bd. 3: Quellen zu Thomas Müntzer, bearb. von Wieland Held und Siegfried Hoyer, Leipzig 2004. – The Collected Works of Thomas Müntzer, hg. und übersetzt von Peter Matheson, Edinburgh 1988.

Литература

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Siegfried Bräuer

Aus: Mennonitisches Lexikon, Bd. 5, Teil 1, hg. von Hans-Jürgen Goertz, 2010 (www.mennlex.de)
Russische Übersetzung: Natalja Klobertanz und Michael Schippan

Müntzer, Thomas, geboren rond 1489 in Stolberg am Harz, ter dood gebracht op 27. Mai 1525 bij Mühlhausen (Thür.), Duitsland; preekte en had een leidende rol in de boerenoorlog 1525.

Afkomst, opleiding, activiteiten vóór de reformatie.

Net als Martin Luther komt Thomas Müntzer uit een graafschap in de Harz dat van de berglandbouw leefde. De in Stolberg sinds de 15de eeuw tot nu toe gevonden naamgenoten maakten voornamelijk deel uit van de stedelijke bovenlaag en hadden zakelijke contacten met het gravenhuis. De ouders van Thomas Müntzer heeft men tot nu toe niet kunnen identificeren en enige invloed van zijn omgeving op zijn ontwikkeling is niet duidelijk. Vermoedelijk ging hij in Quedlinburg naar school, want aan het begin van het wintersemester 1506/07 werd hij als ‘Thomas Munczer de Quedilburck’ ingeschreven bij de universiteit van Leipzig. Aan de universiteit van Frankfurt aan de Oder staat hij aan het begin van het wintersemester 1512/13 ingeschreven als ‘Thomas Müntczer Stolbergensis’. Over duur en inhoud van zijn studie is net zo weinig bekend als over contacten met docenten en studiegenoten. Ook van zijn afstuderen als Magister Artium (voor het eerst genoemd in 1515) en Baccalaureus Biblicus (voor het eerst genoemd in 1521) bestaan geen universitaire bewijsstukken. Waarschijnlijk heeft hij tussen de studies door het gebruikelijke beroep van leraar aan de latijnse school in Aschersleben en Halle uitgeoefend. Na zijn priesterwijding in het bisdom Halberstadt presenteerde de stadraad van Braunschweig hem op 6 mei 1514 voor een laag betaald altaarleen van de Michaeliskerk. Het is mogelijk dat hij daarnaast in de Hanzestad privéleerlingen had uit de opkomende groep van handelaren en handwerkers. Als gevolg van de laatmiddeleeuwse volksmystiek waren dezen op zoek naar dieper gaande bijbels georiënteerde vroomheid en verzamelden zij zich rond Müntzer. 1515/16 werd hij prefect (hoofd) van het domkapittel Frose bij Aschersleben. Hier had hij de zorg voor de kleine groep geestelijken van het kapittel. Daarnaast gaf hij les aan de burgerzonen uit de Braunschweiger kennissenkring. Toen in 1517 door het optreden van Johann Tetzel de aflaatproblematiek ook in Brauschweig bediscussieerd werd, kwam Müntzer nog vóór Luther daartegen in verzet. Of hij tengevolge hiervan Braunschweig moest verlaten en naar Wittenberg ging om duidelijkheid over de aflaat te verkrijgen, blijft ongewis.

Een consequent medestrijder van de Wittenberger reformatoren

Zijn meerdere keren onderbroken verblijf (reis naar Franken) in Wittenberg tussen 1517 en 1519 gebruikte hij voor humanistische en theologische studie. Hij sloot zich aan bij de vroegreformatorische beweging en had contact met haar vertegenwoordigers. Met Pasen 1519 verving hij in Jüterbog de prediker Franz Günther die in conflict was geraakt met de plaatselijke franciscanen. Müntzers geëngageerde , vroegreformatorische kerkkritiek verscherpte het conflict, dat deel uitmaakte van de aftrap van de Leipziger disputatie en waarvoor hij de steun van Luther kreeg. Sporen van een persoonlijke zendingsdrang zijn voor het eerst te herkennen, nadat hij in 1519 de positie van biechtvader had verkregen in het cisterciënzer klooster Beuditz bij Weissenfels. Hier vond hij ook de rust tot intensieve studie van de antieke schrijvers, de kerkvaders – in het bijzonder Augustinus – , van de geschiedenis over de vroege kerk, maar ook van de processtukken van de concilies van Konstanz en Bazel.

Op aanbeveling van Luther begon Müntzer in mei 1520 aan een langere vervanging van de reformhumanistische prediker Johann Egranus van de Heilige Mariakerk in het belangrijke handels- en onderwijscentrum Zwickau, wat hij opvatte als een roeping tot het consequent verkondigen van de reformatie. Reeds zijn eerste preek veroorzaakte een conflict met de invloedrijke franciscanen, dat door tussenkomst van de raad en de keurvorstelijke ambtenaar werd bijgelegd. Na terugkeer van Egran kreeg Müntzer de open predikantenplaats van de tweede stadskerk, Sint Catharina. Er bestonden geen wezenlijke sociale verschillen tussen de twee parochies. In tegenstelling tot Egrans erasmiaanse opvatting van de reformatie verkondigde Müntzer een geloofszekerheid die op de apostelen georiënteerd was en dank zij de werking van de Heilige Geest ervaren werd. Onder aanvoering van de lakenwever Nikolaus Storch kwam rond hem een kring van leken bijeen met een soort reformatorische opwekkingsvroomheid, met kritiek op de kinderdoop en met apocalyptische verwachtingen. Egran en zijn toehoorders vertegenwoordigden daarentegen een meer traditioneel georiënteerd hervormingschristendom. Zij werden voor schijnreformatorische weigeraars van het vernieuwde evangelie uitgemaakt door de aanhangers van Müntzer, die daarmee het conflict polariseerden. Op 16 april 1521 kreeg Müntzer van de stadsraad zijn ontslag. Daardoor waren de scherpste kantjes van de spanningen en vroegste verschillen binnen de hervormingsbeweging voorlopig weggenomen.

Müntzer verliet de stad en trok met ongebroken zendingsijver naar Bohemen waar hij vroeger al de aanwezigheid van betere christenen had verondersteld. Als profetische knecht Gods wilde hij hen met het naderend godsgericht voor ogen winnen voor toetreding tot een naar het voorbeeld van de apostelen gezuiverde kerk. Blijkbaar zag men hem in Praagse universiteitskringen aanvankelijk aan voor een representant van de Wittenberger reformatie. Zijn verscherpte antiklerikale polemiek en de kernpunten van zijn verkondiging (navolging van Christus, levendige godservaringen, herstel van de oorspronkelijke scheppingsorde) zette hij in november 1521 uiteen in een Latijnse, twee Duitse en een Tsjechische versie van een zendbrief. Hij kreeg slechts beperkte respons, werd onder toezicht gesteld en nog vóór het einde van het jaar gesommeerd het land te verlaten. Tot eind 1522 zijn er vervolgens slechts pogingen van Müntzer waar te nemen om een aanstelling te krijgen en een nieuwe zendingsopdracht te beginnen. Rond de jaarwisseling van 1522 naar 1523 werd hij tot kapelaan benoemd in het cisterciënzer klooster Glaucha bij Halle, moest echter na drie maanden al weer vertrekken.

Voor een gemeente van uitverkorenen in het zicht van het naderende oordeel

Reeds met Pasen 1523 kon hij de predikantsplaats van de Neustadtkerk in de keursaksische enclave Allstedt overnemen, waar hij meteen aan de slag ging met de vernieuwing van de preekorde. Hij vertaalde uit het Latijnse missaal de ordeningen voor een Duitse mis, en uit de getijdengebeden de opzet voor een Duitse weekdienst, telkens voor vijf kerkelijke jaargetijden. Deze eerste volledig Duitse, reeds in de praktijk gebruikte, godsdienstorden heeft hij vermoedelijk nog in hetzelfde jaar voor de druk klaar gemaakt bij Nikolaus Wiedemar in Eilenburg. Hij kreeg in Allstedt al gauw voet aan de grond, trouwde met de voormalige non Ottilie von Gersen en transformeerde de Allstedter Nieuwekerk tot een gemeente van uitverkorenen. Zijn poging om opnieuw contact te krijgen met Luther mislukte, met Andreas Karlstadt lukte dat wel. Binnen de kortste tijd bleken zijn godsdienstoefeningen in de hele regio grote aantrekkingskracht te hebben. Dit verontrustte de antireformatorische overheden, vooral toen sedert mei 1523 de vernieuwing van het Wormser mandaat door het rijksregiment van de Saksische vorst in werking getreden was. Tegen deze achtergrond ontstond vermoedelijk Müntzers eerste drukwerk, de Ernste sendebreff an seine lieben bruder zu Stolberg unfuglichen auffrur zu meiden (1523). Hij benadrukte dat de komst van Christus’ heerschappij afhangt van het ware geloof, wat de uitverkorenen staat te verwerven.

In september 1523 kwam het tot een openlijk conflict met graaf Ernst von Mansfeld auf Heldrungen, nadat de graaf zijn onderdanen meerdere keren verboden had de ‘ketterse’ preken in Allstedt te bezoeken en Müntzer hem vervolgens tot vijand van het evangelie had verklaard. Toen de keurvorst erbij geroepen werd, verdedigde Müntzer zich door te wijzen op zijn van God ontvangen preekopdracht en de plicht van de vorsten, wier ambtstermijn door het godsgericht beperkt was, om hun onderdanen te beschermen. Ter verdediging van de godsdiensthervorming verscheen bij Wiedemar zijn Ordnung vnd berechnunge des Teutschen ampts zu Allstadt (1523), een uitleg van zijn orde voor de mis, de doop, het huwelijk, het avondmaal voor zieken en de begrafenis. Müntzer had in Allstedt de kinderdoop ongemoeid gelaten, maar de doopgetuigen op het hart gedrukt verantwoordelijk te zijn voor de geloofsopvoeding van de opgroeiende kinderen. Het is niet zeker of de overgeleverde overwegingen om de jaarlijkse dooptermijn op te schuiven naar het zesde of zevende levensjaar teruggaan op zijn tijd te Allstedt. Vermoedelijk werd het conflict rond Müntzers godsdiensthervorming en zijn prediking pas tot een oplossing gebracht tijdens een verblijf van keurvorst Friedrich en zijn gevolg op slot Allstedt van 4 tot 14 november 1523, toen hij onderweg was naar de rijksdag in Neurenberg. Mogelijk naar aanleiding hiervan verscheen het kritische traktaat Protestation odder empietung Tome Mu(e)ntzers von(n) Stolberg am Hartzs seelwarters zu Allstedt seine lere betreffend vnd zum anfang von dem rechten Christen glawben vnnd der taufe (1523). In aansluiting op de ‘leergesprekken’ op het slot heeft Müntzer misschien zijn laatste kleine geschrift gepubliceerd: Von dem gedichten glawben (1523). Hij eiste dat het aangeleerde (gedichte, gefingeerde) geloof zou moeten worden vervangen door het ware, dat enkel door middel van de navolging van het lijden van Christus bereikt zou kunnen worden.

In het voorjaar van 1524 waren de onder Ernst von Mansfeld regerende landsheren opnieuw van de partij, toen aanhangers van Müntzer de dichtbij gelegen Mallerbacher veldkapel van het klooster Naundorf in brand hadden gestoken en de abdis bestraffing van de daders eiste. Het lukte de raad van Allstedt en slotvoogd Hans Zeiss het onderzoek geruime tijd uit te stellen. Pas in juni werd onder druk van hertog Johann een raadslid gearresteerd. Mensen die uit andere plaatsen op de godsdienstoefeningen afkwamen, werden steeds meer de dupe van represailles door de overheden en zelfs mensen die naar Allstedt waren gevlucht, moesten met uitlevering rekening houden. De bewoners van Allstedt wilden zich tegen deze ingrepen van buiten verdedigen. Müntzer deed een poging om de dreigende escalatie te stoppen door de landsheren te winnen voor de bescherming van de uitverkorenen. Op 13 juli hield hij voor hertog Johan en diens gevolg in het slot een preek over Daniël 2, over de ondergang der wereldrijken, de opkomst van Christus’ heerschappij en de rol die de overheden daarin zouden krijgen. Deze opmerkelijke preek werd meteen op de pers gelegd van de drukkerij in Allstedt, die Müntzer meteen na de sluiting van het bedrijf in Eilenburg had ingericht. Reeds in de zomer van 1523 had Müntzer zijn trouwe aanhang in een geheim genootschap bijeen gebracht en in die gespannen situatie ontstond er in alle openbaarheid een verdedigingsverband waar ook mensen van buiten zich bij aansloten en wat ook in andere plaatsen (bijv. in Orlamünde) navolging vond. Luther reageerde met zijn Brief an die Fürsten zu Sachsen von dem aufrührerischen Geist (1524), waarin hij de verbanning eiste van deze prediker die het gebruik van geweld niet schuwde. Tijdens een verhoor van Müntzer, raad en slotvoogd, eind juli, begin augustus 1524, aan het hof van Weimar, werd Müntzer gemaand om het verband op te heffen en de drukker te ontslaan. Na zijn mislukte poging om slotvoogd en raad aan zijn kant te krijgen,verliet Müntzer in de nacht van 7 op 8 augustus de stad. Vanaf half augustus probeerde hij samen met de reformatorisch geworden, voormalige cisterciënzer Heinrich Pfeiffer opnieuw in de vrije rijksstad Mühlhausen een gemeente van uitverkorenen op te bouwen. In de door hem, dan wel met zijn inbreng, tot stand gekomen Elf Artikeln werd een nieuwe raad geëist. Vermoedelijk werd met het oog op het culminerende conflict met het stadsregime ook een ‘eeuwig verbond met God’ opgericht, dat op militaire leest geschoeid was. Met behulp van troepen uit de regio wist de raad echter begin oktober Müntzer en Pfeiffer het land uit te jagen.

Müntzers Protestation en Von dem getichten glawben vonden hun weg naar de protodopers rond Konrad Grebel in Zürich, en dank zij Hans Hujuff uit Halle, die met hen in contact stond, kregen zij meer informatie over Müntzers optreden in Allstedt. Begin september schreef Grebel uit naam van zijn groep aan Müntzer, de ‘broeder in Christus’, om een gesprek met hem aan te gaan. Net als bij anderen die kritisch stonden tegenover de traditionele kinderdoop, vooral Andreas Karlstadt en Jakob Strauß, vonden zij ook in Müntzers geschriften gemeenschappelijke standpunten. Benadrukt werden vooral het ware geloof dat dankzij de navolging van het lijden verkregen was, de kritiek op de kinderdoop, de veroordeling van de halfslachtige reformatoren, en het zuiveren van de kerk naar apostolische criteria. Bezwaren werden echter evenmin verzwegen, vooral niet de betekenis van ceremonies en de bereidheid om met geweld de reformatie door te zetten. De nadruk lag op het zoeken naar een gesprekspartner en niet op de kritiek op een radicale reformator. Deze brief heeft Müntzer waarschijnlijk nooit bereikt, omdat hij al uit Allstedt vertrokken was; het is dan ook nooit tot een gesprek gekomen.

Hoop op de opstandelingen als werktuig van het goddelijke gericht

Na zijn verbanning uit Mühlhausen duiken sporen van Müntzer pas weer in Neurenberg op. De dankzij Hans Hut in oktober te Nürnberg tot stand gebrachte druk van het herziene Allstedtse geschrift Außgetrückte emplössung des falschen Glaubens der ungetrewen welt (1524) werd door de raad in beslag genomen, evenals de afrekening met Luther, de Hoch verursachte Schutzrede und antwort wider das Gaistloße Sanfftlebende fleysch zu Wittenberg (1524), die hij zelf had laten drukken. Noch in Neurenberg, noch bij de daaropvolgende ontmoeting met Oecolampadius, de reformator van Bazel, trad Müntzer in de openbaarheid. Er zijn geen aanwijzingen voor een ontmoeting met de protodopers uit Zürich, daarentegen is wel denkbaar dat hij een bezoek aan Balthasar Hubmaier in Waldshut heeft gebracht.. Voor de boerenopstandsbeweging in Klettgau heeft Müntzer wellicht Artigkel, wye man herschen soll geschreven. Vermoedelijk zag hij voortaan in het opstandige volk het geroepen werktuig voor het godsgericht, juist omdat de officiële overheden geweigerd hadden deze taak op zich te nemen. In Februari 1525 kwam hij terug in Mühlhausen waar hij het predikambt in de Mariakerk op zich nam en de opbouw van de gemeente van uitverkorenen voor het naderend godsgericht verder uitbouwde. Naar het voorbeeld van de Elf Artikel werd er een nieuwe ‘eeuwige’ raad gekozen. Toen zich eind april de opstandige activiteiten naar Thüringen uitbreidden, zag Müntzer daarin een besluit van God om de bestaande ordeningen omver te werpen en de scheiding tussen uitverkorenen en goddelozen in te leiden. Hij riep nu de voormalige leden van de Allstedtse bond en alle anderen die het nieuwe geloof aanhingen op om mee te doen met de door Gods wil tot stand gebrachte verheffing. Na een door hem zelf geïnitieerde korte veldtocht op het Eichsfeld trok hij ten gevolge van de dringende hulpverzoeken van de opstandelingen met de helft van de Mühlhauser manschappen naar Frankenhausen, waar de opstandelingen uit Thüringen bijeen kwamen. Daar werd de beslissende slag met het optrekkende leger van de hessisch-saksische vorst verwacht (Bauernkrieg). Na een schermutseling daags ervoor kwam het op 15 mei tot een treffen tussen de tegenstanders. Het verloop van de veldslag is niet eenduidig op te helderen. Bijna zonder verweer werden de meeste opstandelingen vernietigd. Müntzer werd tijdens de vlucht gegrepen en op slot Heldrungen gevangen gezet. Na een verhoor werd hij samen met Heinrich Pfeiffer in het vorstelijke kampement bij Mühlhausen geëxecuteerd, nadat hij de Mühlhausers had opgeroepen de strijd te staken. De oorzaak van de nederlaag lag volgens hem in de zelfzucht van de opstandelingen, terwijl hij zijn dood interpreteerde als een zoenoffer voor de ongehoorzaamheid van het volk tegen de wil van God. Hij zette echter geen vraagtekens bij zijn goddelijke opdracht.

Reformatorische theologie met eigen accenten

Het theologische raamwerk van zijn zendingsbesef is niet eenduidig vast te stellen. Als academisch gevormde reformatorische theoloog respecteerde hij de belijdenistraditie van de oude kerk (leer van de triniteit), al bracht hij zijn eigen accenten aan. Centraal in zijn prediking stond de opdracht het ‘gedichte’ geloof te ontmaskeren, vast te houden aan de voor ieder mens onvermijdelijke, door lijden gemarkeerde weg naar het ware geloof in de navolging van Christus, de verkondiging van het naderende Godsgericht, en het herstel van de oorspronkelijke scheppingsorde dankzij de directe heerschappij van God over de mensen en van de mensen over de overige schepselen. Voor zijn argumentatie oriënteerde Müntzer zich op de bijbel, die hij in navolging van de vroegkerkelijke traditie als eenheid zag. De tijd van de apostelen had voor hem een grotere normatieve functie dan voor de meeste andere reformatorische theologen. Voor de beschrijving van het heilsproces gebruikte hij denk- en uitdrukkingsvormen uit de laat middeleeuwse mystiek, voor zijn verwachtingen ten aanzien van het laatste gericht en de toekomst hanteerde hij ook elementen uit de apocalyptische traditie. Müntzer verstrengelde deze traditionele elementen met elkaar en verbond de voorstellingen van het menselijke heilsproces met de toestand van de wereld in het zicht van het naderende laatste oordeel. De vrees voor de schepselen werd door de vreze Gods vervangen en daarin lag de uitdaging om zich tot het uiterste te verzetten tegen de ordeningen die stoelden op de vrees voor de creaturen.

Betekenis

Müntzers nadruk op onder andere het beleefde geloof, zijn kritiek op de traditionele doop en de standenmaatschappij, en zijn focus op de tijd van de apostelen werden al gauw overgenomen in kringen waar zich een alternatief geloofsbegrip manifesteerde naast de lutherse en zwingliaanse hervormingsbeweging. Onder een andere titel en het pseudoniem Christian Hitz von Salzburg verscheen zijn geschrift tegen de Getichten glawben 1526 als een Augsburger druk. Nog in 1531 waren er in doperse kringen kopieën van in omloop. Spiritualisten als Sebastian Franck en Valentin Weigel kenden de geschriften van Müntzer, evenals de Neurenberger doper Hans Denck. Later zorgde Gottfried Arnold voor een hernieuwde receptie, zij het niet zonder voorbehoud. Müntzers aandeel in de Boerenoorlog werd vooral door de Wittenberger bestrijdingsgeschriften in het geheugen van het nageslacht opgeslagen, zodat hij tot in de 20ste eeuw versleten werd voor het prototype van een dweper en oproerkraaier. De tot in de vorige eeuw gangbare opvatting over de nauwe samenhang tussen de doperse beweging en Müntzer stoelde in eerste instantie niet op de brieven van Grebel, die pas in de 18de eeuw bekend werden. Wel verantwoordelijk hiervoor was (naast de veronderstelde verbinding van Müntzer met het doperse koninkrijk te Münster) met name de opvatting van Philipp Melanchthon, die de herkomst van de wederdoop zag in de kring van de Zwickauer profeten (Müntzer als leerling van Nikolaus Storch), alsmede de weergave van het doperdom door Heinrich Bullinger. Dankzij het meer recente onderzoek is vooral Müntzers invloed op het doperdom in Midden- en Zuid- Duitsland via Hans Hut vastgesteld, die terecht als ‘erfgenaam van Müntzer’ (Gottfried Seebaß) betiteld werd.

Op grond van zijn invloed op de geschiedenis van de protestantse godsdienst, de vroomheid inzake de navolging van Christus, en de ontwikkeling van visies rond overheidskritiek en verzet, mag aan Thomas Müntzer een algemeen historische relevantie worden toegekend.

Bronnen

Thomas Müntzer. Schriften und Briefe. Kritische Gesamtausgabe, met medewerking van Paul Kirn red.. door Günther Franz, Gütersloh 1968. – Thomas-Müntzer-Ausgabe. Kritische Gesamtausgabe, red. doorHelmar Junghans, Vol. 2: Briefwechsel, bwe. doorSiegfried Bräuer en Manfred Kobuch, Leipzig 2010; Vol. 3: Quellen zu Thomas Müntzer, bew. door Wieland Held en Siegfried Hoyer, Leipzig 2004. – The Collected Works of Thomas Müntzer, uitgeg. en vertaald door Peter Matheson, Edinburgh 1988.

Literatur

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Siegfried Bräuer
Nederlandse vertaling: K.J.Thijink-van der Vlugt

Uit: Mennonitisches Lexikon, Bd. 5, Teil 1, hg. von Hans-Jürgen Goertz, 2010 (www.mennlex.de)

Müntzer, Thomas, né vers 1489 à Stolberg dans le Harz, exécuté le 27 mai 1525 près de Mühlhausen (Thuringe), Allemagne ; prédicateur et l’un des meneurs de la Guerre des Paysans de 1525.

Origines, formation, action préréformatrice

Comme Martin Luther, Thomas Müntzer est né dans une contrée du Harz connue pour ses richesses métallurgiques. Les porteurs de ce nom patronymique attestés depuis le XVe siècle à Stolberg appartenaient en majorité à la classe urbaine supérieure et avaient une relation professionnelle avec la famille des comtes régnants. Les parents de Müntzer n’ont pas été à ce jour identifiés, et il est difficile de déceler une quelconque influence du milieu social sur son évolution ultérieure. C’est probablement à Quedlinbourg qu’il reçut sa formation scolaire, puisqu’il fut inscrit au début du semestre d’hiver 1506/07 à l’université de Leipzig sous le nom de « Thomas Munczer de Quedilburck ». À l’université de Francfort sur l’Oder, il est enregistré au début du semestre d’hiver 1512/13 sous le nom de « Thomas Müntczer Stolbergensis ». On est aussi mal renseigné sur la durée et le contenu de ses études que sur ses contacts avec ses professeurs et ses camarades. Il n’existe pas non plus de preuve universitaire sur l’obtention de son grade de Magister artium (mentionné pour la première fois en 1515), ni sur celui de Baccalaureus biblicus (mentionné pour la première fois en 1521). Dans les intervalles de ses périodes universitaires, il a sans doute exercé la profession intérimaire usuelle de professeur aux Écoles Latines de Aschersleben et de Halle. Le 6 mai 1514, après son ordination comme prêtre du diocèse de Halberstadt, l’ancien Conseil de la ville de Brunswick le dota d’un bénéfice d’autel maigrement rétribué à l’église Saint Michel. Dans cette ville hanséatique, il eut probablement aussi des élèves privés issus des familles en plein essor de marchands et d’artisans, qui, dans leur quête d’une piété biblique approfondie, se regroupaient autour de Müntzer sous l’influence de la mystique populaire du Moyen Âge tardif. En 1515/16, il fut préfet du chapitre de chanoinesses Frose proche d’Aschersleben. Il avait en fait en charge le petit contingent de prêtres assignés au chapitre. En même temps, il instruisait des fils de familles de Brunswick qui faisaient partie du cercle de ses relations. Lorsque, en 1517, la question des indulgences fut débattue, à Brunswick aussi, grâce aux activités de Johann Tetzel, Müntzer prit une position critique à leur égard avant même que Luther ne se fût exprimé à ce sujet. Rien ne nous dit qu’il ait dû quitter Brunswick après cette controverse, ni qu’il se soit rendu à Wittenberg pour faire le clair sur la question.

Allié résolu des Réformateurs de Wittenberg

Müntzer séjourna à Wittenberg entre 1517 et 1519, à l’exception de quelques déplacements (dont un voyage en Franconie). Il en profita pour s’engager dans des études humanistes et théologiques tout en s’impliquant dans le mouvement réformateur naissant, et il entra en contact avec ses représentants. À Pâques 1519, il remplaça à Jüterbog le prédicateur Franz Günther, qui était entré en conflit avec les Franciscains implantés à cet endroit. La critique engagée que Müntzer fit de l’Église, dans l’esprit des débuts de la Réforme, aggrava le conflit qui faisait partie des préliminaires de la dispute de Leipzig, et dans lequel il reçut le soutien de Luther. Au moment où il accepte, en 1519, le poste de confesseur dans le couvent de cisterciennes de Beuditz proche de Weissenfels, on perçoit pour la première fois les signes d’une conscience personnelle de sa mission. C’est là qu’il trouva aussi le loisir d’étudier de près les auteurs antiques, les Pères de l’Église, en particulier Augustin, l’histoire de l’Église primitive, ainsi que les actes des conciles de réforme de Constance et de Bâle.

Recommandé par Luther, Müntzer sera ensuite nommé comme prédicateur à Zwickau. Dans cet important centre économique et culturel, il assuma d’abord, à partir de mai 1520, un assez long intérim comme prédicateur à l’église Sainte Marie, en remplacement du réformateur humaniste Johann Egranus. Il comprenait sa position comme une vocation à la proclamation rigoureuse de la Réforme. Sa toute première prédication déclencha un conflit avec les influents Franciscains du lieu, conflit qui fut réglé avec l’aide du conseil municipal et du bailli représentant le Prince Électeur. Après le retour d’Egranus, Müntzer sera muté à Sainte-Catherine, deuxième église de la ville où il obtient le poste de prédicateur vacant. Il n’y avait pas de différences sociales fondamentales entre les deux paroisses. Par opposition à la conception érasmienne de la Réforme d’un Egranus, Müntzer proclamait une certitude de foi qui prenait modèle sur l’époque apostolique, et dont l’expérience pouvait être vécue sous l’action de l’Esprit Saint. Sous la conduite du drapier Nicolas Storch se rassemble autour de lui un groupe de laïcs, caractérisés par une piété expérimentale dans l’esprit évangélique, la critique du baptême des enfants et des attentes apocalyptiques. Egranus et ses fidèles défendaient en revanche une conception plutôt traditionnelle du christianisme réformé. Les adeptes de Müntzer dénoncent Egranus et ses partisans comme des réformateurs hypocrites, leur reprochant de rejeter intérieurement le nouvel Évangile, et polarisant ainsi le conflit. Le 16 avril 1521, le conseil municipal de Zwickau décide de la révocation de Müntzer, et les tensions reflétant les tous premiers clivages à l’intérieur du mouvement réformateur sont pour l’instant désamorcées.

Gardant intacte la conscience de sa mission, Müntzer quitta Zwickau et partit pour la Bohême, où, bien auparavant déjà, il avait cru pouvoir trouver de meilleurs chrétiens. En tant que serviteur prophétique de Dieu, il voulait, face à l’imminence du jugement de Dieu, gagner les Bohémiens pour instaurer une Église purifiée s’inspirant du modèle de l’époque apostolique. Manifestement, dans les cercles universitaires pragois, il fut au début considéré comme un représentant de la Réforme de Wittenberg. Il exposa sa polémique anticléricale incisive et ses principales orientations théologiques (imitation du Christ, expérience vécue de Dieu, restauration de l’ordre originel de la création) dans une Lettre ouverte de novembre 1521, qui existe en quatre versions différentes, une en latin, deux en allemand et une en tchèque. Il ne réussit guère à se faire entendre, fut placé sous surveillance et obligé de quitter la Bohême avant la fin de l’année. Jusqu’à la fin de l’année 1522, on n’a plus que des traces éparses des efforts de Müntzer pour trouver un point d’ancrage d’où il aurait pu lancer sa mission. Au tournant des années 1522/23, il obtint un poste de chapelain dans le couvent de cisterciennes Glaucha proche de Halle, qu’il fut toutefois obligé de quitter au bout de trois mois.

Pour une Communauté des Élus face à l’imminence du Jugement

À Pâques 1523, on le retrouve à Allstedt, enclave protestante dans la Saxe catholique, comme pasteur de paroisse à l’église de la nouvelle ville. Dans cette petite enclave protestante de Saxe électorale, il met aussitôt en œuvre son projet de réorganisation du culte. Il traduit à partir du missel latin un Ordre de messe évangélique en allemand et, à partir de la Liturgie des Heures, un Ordre de culte hebdomadaire en allemand, avec cinq modèles de culte selon les temps de l’année ecclésiastique. Probablement au cours de l’année 1523, il prépara ses Ordres complets de culte en allemand (les premiers qui furent pratiqués ) pour l’impression chez Nicolas Wiedemar à Eilenbourg. Il s’implanta rapidement à Allstedt, épousa l’ancienne nonne Ottilie von Gersen et entreprit de transformer l’église de la nouvelle ville d’Allstedt en Communauté des Élus. Sa tentative de renouer avec Luther échoua, alors qu’il parvint à reprendre contact avec Andreas Carlstadt. Très rapidement, ses services religieux exercèrent une grande attraction sur la région entière. Ils inquiétèrent les autorités opposées à la Réforme, surtout lorsque le renouvellement de l’Édit de Worms par le Reichsregiment fut transmis en mai 1523 aux princes saxons. C’est probablement dans ce contexte que fut composé le premier écrit imprimé de Müntzer, sa Lettre ouverte à ses chers frères de Stolberg les invitant solennellement à se garder de toute sédition inopportune (1523). Il y soulignait que la venue du règne du Christ ne pourrait pas avoir lieu avant que les Élus aient atteint la vraie foi.

En septembre 1523, Müntzer en arriva à un conflit ouvert avec le comte Ernest de Mansfeld à Heldrungen après que le comte ait interdit à plusieurs reprises à ses sujets de venir assister aux services religieux « hérétiques » d’Allstedt, et que Müntzer ait réagi en le déclarant ennemi de l’Évangile. Lorsque le Prince Électeur fut impliqué, Müntzer se justifia en se référant au fait que, étant donné que Dieu l’avait chargé d’une mission de prédication, les princes avaient le devoir de le protéger, conformément à leur fonction dans l’attente du Jugement dernier. Pour défendre sa réforme du culte, il publia chez Wiedemar son Ordre et Explication en allemand du service divin d’Allstedt, une explication de son Ordre de la messe, du baptême, du mariage, de la communion des malades et des obsèques. À Allstedt, Müntzer est resté fidèle au baptême des enfants, tout en confiant aux parrains la responsabilité de veiller à l’éducation des jeunes enfants dans la foi. On ne sait pas si les notes transmises pour introduire une cérémonie de baptême annuelle et le report de l’âge du baptême à 6 ou 7 ans datent encore de l’époque d’Allstedt ou non. Le conflit à propos de la réforme du culte de Müntzer et le contenu de sa prédication ne fut probablement clarifié que lorsque le Prince Électeur Frédéric et sa suite, en route pour la Diète de Nuremberg, séjournèrent au château d’Allstedt du 4 au 14 novembre 1523. Ce fut sans doute à cette occasion que parut le traité Protestation et Déclaration de Thomas Muentzer de Stolberg dans le Harz, pasteur à Allstedt, au sujet de son enseignement, en commençant par la vraie foi chrétienne et le baptême (1523). Et c’est vraisemblablement dans le prolongement des “discussions doctrinales ” au château que Müntzer a publié son dernier petit écrit De la foi imaginaire (1523). Il réclamait que la foi apprise (imaginaire) fût remplacée par la foi vraie, qui ne pouvait être atteinte que dans l’imitation du Christ souffrant.

Au printemps 1524, les princes de la ligne ernestine intervinrent à nouveau lorsque des adeptes de Müntzer mirent le feu à la chapelle de Mallerbach du couvent de Naundorf proche d’Allstedt, et que l’abbesse exigea la punition des coupables. Le conseil municipal d’Allstedt et le bailli Zeiss purent longtemps retarder l’enquête. C’est seulement en juin qu’un membre du conseil municipal fut arrêté sur demande expresse du Duc Jean. Les nombreux catholiques des environs attirés par les nouveaux offices divins furent de plus en plus exposés à des répressions de la part des autorités, et même ceux qui avaient trouvé refuge à Allstedt devaient compter avec leur extradition. Les habitants d’Allstedt voulurent prendre les armes contre ces interventions extérieures. Müntzer tenta d’arrêter l’escalade de violence en essayant de gagner les princes territoriaux pour la protection des Élus. Le 13 juillet, il fit devant le Duc Jean et son entourage un sermon sur Daniel 2 : il parla de la décadence des empires universels, de la venue du règne du Christ et du rôle qui était attendu des autorités dans cette période de transition. Ce remarquable sermon fut immédiatement mis sous presse dans l’imprimerie d’Allstedt, que Müntzer avait fondée après la fermeture de l’officine d’Eilenburg. Dès l’été 1523, Müntzer avait organisé ses disciples en une ligue secrète de défense mutuelle, et dans cette situation tendue, il donna le 24 juillet à cette ligue une forme publique, en y admettant aussi des gens venus d’ailleurs et entreprit de l’élargir en créant d’autres implantations (comme à Orlamünde). Luther réagit avec sa Lettre aux princes de Saxe sur l’esprit de sédition (1524), virulent pamphlet contre Müntzer qu’il considérait comme un prédicateur porté à la violence, et dont il exigeait l’expulsion du territoire. Dans un interrogatoire à la cour de Weimar auquel furent soumis Müntzer, le conseil municipal et le bailli fin juillet/ début aout 1524, Müntzer fut exhorté à dissoudre l’alliance et à licencier son imprimeur. Après une vaine tentative de mettre de son côté le bailli et le conseil municipal, Müntzer quitta Allstedt dans la nuit du 7 au 8 août. À partir de la mi-août, il tenta avec l’ancien moine cistercien Heinrich Pfeiffer de mettre de nouveau sur pied une Communauté des Élus en s’appuyant sur le mouvement réformateur dans la ville d’Empire libre de Mühlhausen. Les Onze articles, rédigés par lui ou avec sa participation, exigeaient un nouveau conseil municipal pour Mühlhausen. C’est probablement l’aggravation du conflit avec le gouvernement de la ville qui suscita la création d’ une « alliance éternelle de Dieu ». Avec l’aide d’ une levée de troupes rurales, le conseil municipal réussit pourtant à expulser Müntzer et Pfeiffer début octobre.

La Protestation de Müntzer et son écrit De la foi imaginaire tombèrent entre les mains des proto-anabaptistes du groupe de Conrad Grebel à Zürich, et par Hans Hujuff de Halle, dont ils étaient proches, ils obtinrent des informations supplémentaires sur l’action de Müntzer à Allstedt. Début septembre, Grebel écrivit au nom de son groupe à Müntzer, son « frère en Christ », dans le but d’entreprendre avec lui « une mutuelle discussion future ». Il lui disait que ses écrits révélaient des points communs entre eux, comme il l’avait constaté déjà pour d’autres critiques du traditionnel baptême des enfants, en particulier chez Andreas Carlstadt et Jacob Strauss. Pour l’essentiel, ce qui les rapprochait était la foi véritable, acquise dans l’imitation des souffrances du Christ, la critique du baptême des enfants, la condamnation des réformateurs pusillanimes, la purification de l’Église selon les normes apostoliques. Cependant, il n’hésitait pas à exprimer des réserves vis-à-vis de certaines idées de Müntzer, notamment sur le fait qu’il contestait la validité des cérémonies, et qu’il était prêt à recourir à la violence pour imposer la Réforme. Quoi qu’il en soit, l’accent était mis sur la recherche d’un partenaire de discussion et non pas sur la critique d’un réformateur radical. Cette lettre n’a probablement jamais atteint Müntzer, puisqu’il avait déjà quitté Allstedt, et qu’aucune discussion n’avait pu prendre place.

Vision du mouvement de révolte comme instrument du jugement divin

Après son expulsion de Mühlhausen, on ne retrouve les traces de Müntzer qu’à Nuremberg. Son écrit d’Allstedt remanié, Expresse mise à nu de la fausse foi exposée au monde infidèle (1524), qui fut imprimé par l’intermédiaire de Hans Hut, fut confisqué par le conseil de Nuremberg en octobre 1524. Le même sort fut réservé en décembre à sa riposte à Luther, le Plaidoyer très bien fondé et réponse à la chair sans esprit qui mène douce vie à Wittenberg (1524), qu’il avait lui-même donné à imprimer. Müntzer n’apparut en public ni à Nuremberg, ni lors de sa rencontre ultérieure avec le réformateur bâlois Oecolampade. Il n’existe aucune preuve de sa rencontre avec les proto-anabaptistes de Zürich, bien qu’il soit vraisemblablement allé voir Balthasar Hubmaier à Waldshut. Il se peut qu’il ait écrit les Articles sur la manière de gouverner pour le mouvement des paysans révoltés du Klettgau. Apparemment, Müntzer voyait dans le peuple révolté l’instrument d’élection du jugement divin à partir du moment où les gouvernements institués refusaient d’assumer cette tâche. En février 1525, il retourna à Mühlhausen, assuma le pastorat à l’église Sainte-Marie, et continua à promouvoir l’édification d’une Communauté des Élus dans l’attente de l’imminence du Jugement dernier. Selon les directives des Onze Articles, un nouveau conseil fut élu, un conseil « éternel ». Quand la révolte d’Allemagne du Sud gagna la Thuringe à la fin du mois d’avril, Müntzer y vit l’action de Dieu, qui aurait décidé de révoquer les autorités en place et d’initier la séparation des Élus et des impies. Il invita alors les anciens membres de l’alliance d’Allstedt et tous les hommes disposés à croire, à se joindre au soulèvement conformément à la volonté de Dieu. Après une intervention militaire ponctuelle dans la région de l’Eichsfeld, il répondit, avec la moitié du contingent de Mühlhausen, aux pressants appels à l’aide des révoltés de Thuringe qui s’étaient rassemblés à Frankenhausen. C’est là qu’étaient attendues les armées princières de Hesse et de Saxe pour une bataille décisive (Guerre des Paysans). Après une escarmouche le jour précédent, les forces ennemies se rencontrèrent le 15 mai. Il est difficile d’éclaircir le déroulement de la bataille. La plupart des révoltés furent massacrés pratiquement sans offrir de résistance. Müntzer fut arrêté dans sa fuite et emprisonné au château de Heldrungen. Après un interrogatoire, il fut exécuté, en même temps que Heinrich Pfeiffer, dans le camp princier établi devant Mühlhausen, après avoir appelé le peuple de Mühlhausen à abandonner le combat. Dans cette lettre d’adieu, il dénonçait la cupidité des révoltés comme cause de la défaite et il comprenait sa mort comme sacrifice expiatoire pour la désobéissance du peuple à la volonté de Dieu. Il ne remettait cependant pas en cause sa mission divine.

Une théologie réformatrice aux accents personnels

Le cadre théologique dans lequel s’inscrit la conscience qu’il avait de sa mission reste difficile à définir. En tant que théologien réformé ayant reçu une formation académique, il respectait la tradition confessionnelle de l’Église médiévale (doctrine de la Trinité), mais il y mettait des accents personnels. Sa proclamation était centrée sur la tâche de démasquer la foi « imaginaire », sur l’indispensable chemin de souffrance qui menait vers la foi vraie dans l’imitation du Christ, sur l’annonce du Jugement divin, dans le but de rétablir l’ordre originel de Dieu, avec la souveraineté immédiate de Dieu sur les hommes et des hommes sur les créatures. Dans son argumentation, Müntzer prenait appui sur la Bible, qu’il comprenait comme une unité conformément à la tradition de l’Église primitive. Dans son ensemble, l’époque apostolique avait pour lui une fonction normative plus forte que pour la plupart des théologiens de la Réforme. Pour la description du processus du salut, il utilisait des formes de pensée et d’expression de la mystique médiévale tardive ; pour ses annonces du Jugement et de l’avenir, il s’inspirait aussi de la tradition apocalyptique. Müntzer a combiné ensemble ces éléments traditionnels et ainsi associé les idées du processus de salut individuel avec une vision de la refonte du monde face à l’imminence du Jugement. La crainte des créatures était remplacée par la crainte de Dieu, et c’est bien là qu’était enraciné son appel à s’opposer résolument aux institutions fondées sur la crainte des créatures.

Impact historique

L’insistance de Müntzer sur la foi vécue par expérience, sa critique du baptême traditionnel et de l’ordre social existant, tout comme sa façon de prendre modèle sur l’époque apostolique rencontrèrent rapidement un certain succès là où se faisait jour une conception de la foi différente de celle des réformes de Luther et de Zwingli. Avec un titre modifié et sous le pseudonyme de Christian Hitz de Salzbourg, son écrit contre la Foi imaginaire fut publié à Salzbourg en 1526. Des copies circulaient encore chez les anabaptistes en 1531. Des spiritualistes tels que Sebastian Franck ou Valentin Weigel connaissaient les écrits de Müntzer, de même que l’anabaptiste de Nuremberg Hans Denck. Par la suite, Gottfried Arnold oeuvra à nouveau pour une réception, même si ce n’était pas sans réserve. C’est surtout par les écrits polémiques de Wittenberg que la participation de Müntzer à la Guerre des Paysans fut gardée en mémoire par les générations futures, de sorte qu’il fut considéré jusqu’au XXe siècle comme l’archétype du fanatisme et de la rébellion. La thèse des rapports étroits entre le mouvement anabaptiste et Müntzer, qui fut défendue jusqu’au XXe siècle, ne se fondait pas tout d’abord sur la lettre de Grebel, qui ne fut connue qu’au XVIIIe siècle. Bien plutôt, cette idée (ainsi que celle d’un lien supposé entre Müntzer et le royaume anabaptiste de Münster) est surtout à mettre au compte de Philippe Melanchthon qui voit les origines de l’anabaptisme chez les prophètes de Zwickau (Müntzer aurait été l’élève de Nikolaus Storch). La présentation des anabaptistes dans les écrits de Heinrich Bullinger va d’ailleurs également dans ce sens. Les recherches récentes ont confirmé l’influence de Müntzer sur l’anabaptisme d’Allemagne centrale et méridionale par l’intermédiaire de Hans Hut, qui fut, à juste titre, qualifié par Gottfried Seebass d’ « héritier de Müntzer ».

Son influence sur l’histoire du culte protestant et sur la piété de l’imitation du Christ, ainsi que son rôle dans la constitution d’une critique de l’autorité établie et d’une doctrine de la résistance confèrent à Thomas Müntzer une importance historique de premier ordre.

Sources

Thomas Müntzer. Schriften und Briefe. Kritische Gesamtausgabe, unter Mitwirkung von Paul Kirn hg. von Günther Franz, Gütersloh 1968. – Thomas-Müntzer-Ausgabe. Kritische Gesamtausgabe, hg. von Helmar Junghans, Bd. 2: Briefwechsel, bearb. von Siegfried Bräuer und Manfred Kobuch, Leipzig 2010; Bd. 3: Quellen zu Thomas Müntzer, bearb. von Wieland Held und Siegfried Hoyer, Leipzig 2004. – The Collected Works of Thomas Müntzer, hg. und übersetzt von Peter Matheson, Edinburgh 1988.

Littérature secondaire

Marion Dammaschke und Günter Vogler, Thomas-Müntzer-Bibliographie (1519-2012), Baden-Baden 2013. – Gottfried Seebaß, Art. Thomas Müntzer, in: Theologische Realenzyklopädie 23, Berlin 1994, 414-436 (Lit.). – Max Steinmetz, Das Müntzerbild von Martin Luther bis Friedrich Engels, Berlin 1971. – Ingo Warnke, Wörterbuch zu Thomas Müntzers deutschen Schriften und Briefen, Tübingen 1993. – Carl Hinrichs, Luther und Müntzer. Ihre Auseinandersetzung über Obrigkeit und Widerstandsrecht. Berlin 1952. – Manfred Bensing, Thomas Müntzer und der Thüringer Aufstand 1525, Berlin 1966. – Hans-Jürgen Goertz, Innere und äußere Ordnung in der Theologie Thomas Müntzers, Leiden 1967. – Walter Elliger Thomas Müntzer. Leben und Werk. 3. Aufl., Göttingen 1976. – Reinhard Schwarz, Die apokalyptische Theologie Thomas Müntzers und der Taboriten, Berlin 1977. – James M. Stayer und Werner O. Packull (Hg.), The Anabaptists and Thomas Müntzer, Dubuque, Iowa, 1980. – Max Steinmetz, Thomas Müntzers Weg nach Allstedt, Berlin 1988. – Ulrich Bubenheimer, Thomas Müntzer. Herkunft und Bildung. Leiden 1989. – Siegfried Bräuer und Helmar Junghans (Hg.), Der Theologe Thomas Müntzer. Untersuchungen zu seiner Entwicklung und Lehre. Berlin und Göttingen 1989. – Hans-Jürgen Goertz, Thomas Müntzer. Mystiker, Apokalyptiker, Revolutionär. München 1989 (engl. und jap.). – Günter Vogler. Thomas Müntzer, Berlin 1989. – Tom Scott, Thomas Müntzer. Theology and Revolution in the German Reformation. Houndmills und London 1989. – Abraham Friesen, Thomas Muentzer, a Destroyer of the Godless. The Making of a Sixteenth Century Religious Revolutionary. Berkeley, Los Angeles und Oxford 1990. – Siegfried Bräuer, Spottgedichte, Träume und Polemik in den frühen Jahren der Reformation, hg. von Hans-Jürgen Goertz und Eike Wolgast, Leipzig 2000. – Gottfried Seebaß, Müntzers Erbe. Werk, Leben und Theologie des Hans Hut. Gütersloh 2002. – Günter Vogler, Thomas Müntzer und die Gesellschaft seiner Zeit, Mühlhausen 2003. – Günter Vogler (Hg.), Bauernkrieg zwischen Harz und Thüringer Wald, Stuttgart 2008.

Siegfried Bräuer
(trad. Hélène Feydy)

Aus: Mennonitisches Lexikon, Bd. 5, Teil 1, hg. von Hans-Jürgen Goertz, 2010 (www.mennlex.de)

Müntzer, Thomas, nació alrededor de 1489 en Stolberg (zona montañosa del Harz), fue ejecutado el 27 de mayo de 1525 en Mühlhausen (Turingia, Alemania); predicador con un rol de liderazgo en la Guerra de los Campesinos de 1525.

Origen, estudios, actividad previa a la Reforma

Al igual que Martín Lutero también Tomás Müntzer proviene de un condado del Harz marcado por la economía minera. En Stolberg, las personas de ese apellido desde el siglo XV mayormente formaron parte del sector social más acomodado en la urbe, y estaban vinculados por sus profesiones a la casa de los condes. Aún no se logró identificar a los progenitores de Müntzer y por eso tampoco la influencia del entorno social sobre su desarrollo. Probablemente recibió su formación escolar en Quedlinburg, ya que a comienzos del semestre de invierno de 1506/07 se lo inscribió como “Thomas Munczer de Quedilburck” en la universidad de Leipzig. En la universidad de Francfort del Oder para el semestre de invierno 1512/13,la se lo anotó como “Thomas Müntczer Stolbergensis”. Sobre duración y el contenido de sus estudios falta información, al igual que sobre los contactos con docentes y compañeros de estudio. Tampoco existe documentación universitaria sobre su graduación como Magíster en las disciplinas básicas (artes liberales), primera mención en 1515, o Bachiller en Biblia (primera mención en 1521). Es probable que entre ambos períodos de estudio se desempeñara en la tradicional tarea de maestro de latín en Aschersleben y Halle. Luego de su consagración al sacerdocio en la diócesis de Halberstadt, el senado de la ciudad vieja de Braunschweig lo postuló el 6 de mayo de 1514 para una prebenda de baja dotación en un altar de la iglesia de San Miguel. Posiblemente en forma paralela también pudo haber dado clases particulares a alumnos provenientes del sector ascendente de mercaderes y artesanos en esas ciudad perteneciente a la Liga Hanseática; éstos, por su interés en profundizar una piedad con orientación bíblica e influidos por la mística popular del tardo medioevo se nuclearon en torno a Müntzer. En 1515/1516 fue prefecto de la fundación de canónigas en Frose, cerca de Aschersleben, donde debía atender a un grupo reducido de monjas; en forma paralela siguió brindando educación a los hijos del grupo de ciudadanos de Braunschweig, con el que seguía vinculado. Cuando en 1517 por las actividades de Juan Tetzel también se comenzó a debatir en Braunschweig la cuestión de las indulgencias, Müntzer –antes incluso que Lutero– tomó una postura crítica respecto a las mismas. No queda claro si fue a consecuencia de ello que tuvo que abandonar Braunschweig y se dirigió a Wittenberg para lograr claridad sobre el tema de la indulgencia eclesial.

Adepto militante de los Reformadores de Wittenberg

Su estadía en Wittenberg entre 1517 y 1519, con interrupciones múltiples (viaje a Franconia) la aprovechó para estudios humanísticos y teológicos; adhirió al temprano movimiento de la Reforma y se contactó con sus representantes. Durante la Pascua de 1519 reemplazó por un tiempo al predicador Fanz Günther en Jüterbog, quien se había trabado en un conflicto con los franciscanos del lugar. La crítica a la iglesia de Müntzer, comprometido con la temprana Reforma, intensificó el conflicto allí existente, que fue la antesala de la Disputa de Leipzig y recibió apoyo por parte de Lutero. Luego de haber asumido en 1519 el cargo de confesor en un convento de monjas cistercienses en Beuditz cercano a Weißenfels, por primera vez se detectan en él rastros de una conciencia personal de enviado. Aquí encontró tiempo para dedicarse con intensidad al estudio de autores antiguos: los padres de la iglesia, en especial Agustín, la historia de la temprana iglesia, pero también las actas de los concilios impulsores de reformas en Constanza y Basilea.

Por recomendación de Lutero en mayo de 1521, Müntzer asumió un reemplazo prolongado del predicador de orientación humanista renovadora Johannes Egranus, en la iglesia Santa María de Zwickau, importante centro educacional y económico. Müntzer interpretó esa tarea de reemplazante como un llamado a la proclamación en línea con las propuestas de la Reforma. Ya su primera predicación generó un conflicto con los influyentes franciscanos del lugar, que fue apaciguado con la intervención del consejo municipal y el funcionario del príncipe elector. Luego de regresar Egran, a Münzter se le encomendó el cargo vacante de predicador en la segunda iglesia de la urbe, Santa Catalina. No había diferencias sociales importantes entre ambas parroquias. En oposición a la concepción erasmiana de Reforma que impulsaba Egran, Muenzer proclamaba una certeza de fe inspirada en los tiempos apostólicos y vivenciable a través del Espíritu Santo. Liderada por el tejedor Nikolaus Storch se congregó en torno suyo un grupo laico marcado por un despertar piadoso y reformador, crítico del bautismo de párvulos y con expectativas apocalípticas. Por el contrario, Egran y sus público representaban un cristianismo reformador de tendencia más tradicional. Los seguidores de Müntzer denunciaban a Egran y a sus adherentes como reformadores en apariencia, cerrados a un evangelio renovado, polarizando así el conflicto. El 16 de abril de 1521 el consejo de la ciudad despidió a Müntzer de su cargo, con lo que las tensiones generadas por esta primera diferenciación dentro del movimiento de la Reforma quedaron momentáneamente aplacadas.

Müntzer abandonó la ciudad y con su conciencia de enviado intacta, se dirigió a Bohemia, donde ya desde antes sospechaba estarían los mejores cristianos. Como siervo-profeta de Dios en vísperas del Juicio Final se propuso ganarlos para iniciar una iglesia purificada según el ejemplo del tiempo de los apóstoles. Por lo visto, al comienzo, los círculos universitarios de Praga lo vieron como representante de la Reforma surgida en Wittenberg. En una misiva de noviembre de 1521 (conservada en dos versiones alemanas, una latina y una checa) desarrolló su polémica anticlerical aguzada y los ejes de su proclamación (seguimiento a Cristo, experiencias vivas de Dios, restitución del orden creacional originario). Sólo se le prestó atención parcialmente, fue puesto bajo supervisión y antes de fin de año se lo obligó a abandonar el país. Hasta fines del año 1522 sólo hay rastros de intentos por parte de Müntzer de conseguir un cargo y un nuevo punto de partida para su cometido. En el pasaje del año 1522 a 1523 obtuvo un cargo como capellán en el convento de monjas cistercienses Glaucha cercano a Halle que, sin embargo, tuvo que dejar apenas tres meses después.

Una comunidad de elegidos en vista al inminente juicio final divino

Para la Pascua de 1523 logró asumir un cargo como párroco en la iglesia de la Ciudad-nueva en Allstedt, un enclave de Sajonia electoral, iniciando de inmediato la renovación de las celebraciones litúrgicas. Tradujo el orden para una misa alemana del Misal Latino y del Libro de Horas el orden para un culto de semana para cinco de los tiempos del año litúrgico. Estos primeros órdenes para la celebración de cultos en alemán, ya en uso, posiblemente los preparó todavía en ese mismo año para ser impresos en Eilenburg por Nikolaus Wiedemar. Rápidamente pudo consolidar su posición en Allstedt. Contrajo matrimonio con la ex-monja Ottilie von Gersen e impulsó la transformación de la iglesia de la Ciudad-nueva de Allstedt en una comunidad de elegidos. El renovado intento por establecer contacto con Lutero fracasó, pero logró contactarse con Andrés Karlstadt. Muy pronto los cultos de Müntzer empezaron a irradiar una gran atracción hacia toda la región circundante. Estos cultos preocuparon a las autoridades opuestas a la Reforma, en especial luego de la renovación del Mandato de Worms, enviada en mayo de 1523 por el Tribunal de Cámara del Imperio a los príncipes sajones. Sobre este trasfondo cobró forma la primera obra impresa de Müntzer, su Severa misiva a sus amados hermanos en Stolberg, para evitar sublevación improcedente (1523). Allí subraya que el arribo del gobierno de Cristo presupone la fe verdadera, que deben lograr los elegidos.

En setiembre de 1523 se produjo un conflicto abierto con el conde Ernst von Mansfeld (en Heldrungen), luego de que éste en reiteradas oportunidades prohibiera a sus súbditos asistir a los cultos “heréticos” en Allstedt y consiguientemente Müntzer lo declarara enemigo del evangelio. Cuando le tocó intervenir en la cuestión al príncipe elector, Müntzer se justificó señalando la procedencia divina de su encargo para predicar y el deber de protección que cabía ejercer a los príncipes, cuyo ejercicio expiraba con el Juicio Final. A modo de defensa de su reforma de las actividades litúrgicas publicó en la prensa de Wiedemar Orden y razón de los cultos en alemán de Allstedt (1523), una aclaración de su orden para la misa, bautismo, matrimonio, Santa Cena para enfermos y sepelios. En Allstedt, Müntzer mantuvo el bautismo de párvulos, pero subrayándoles a los padrinos su responsabilidad en cuanto a la educación en la fe de esos niños. No está claro si las consideraciones en cuanto a introducir una sola fecha anual para bautismos y la postergación del bautismo hasta el sexto o séptimo año de vida ya se remontan al tiempo que estuvo en Allstedt. Posiblemente el conflicto desatado en torno a la reforma de los cultos y la proclamación de Müntzer recién se aclarara en ocasión de una estadía del príncipe elector Federico y su comitiva entre el 4 y el 14 de noviembre de 1523 en el castillo de Allstdet, de viaje a la Dieta de Nuremberg. Quza´s con miras a esta situación se publicó el tratado crítico Protesta o proposición de Thomas Müntzer de Stolberg en el Harz, pastor en Allstedt, sobre sus enseñanzas y para dar inicio a la verdadera fe cristiana y al bautismo (1523). Como corolario de las “conversaciones doctrinales” en el castillo, Müntzer publicó su último texto breve: Sobre la fe (poéticamente) fingida (1523). Exigía que la fe trasmitida por aprendizaje (fe inventada) debía ser sustituida por una fe auténtica, que sólo podía lograrse en el seguimiento sufriente de Cristo.

A comienzos de 1524, las autoridades de Sajonia electoral volvieron a intervenir cuando seguidores de Müntzer terminaron por destruir una capilla de campo cercana en Mallerbach, propiedad del convento Naundorf, incendiándola; la abadesa de Naundorf exigía el castigo a los culpables. Durante un tiempo prolongado el consejo de Allstedt y el recaudador de impuestos y castellano Juan Zeiss lograron posponer una investigación. Recién en junio y ante la presión del duque Juan fue detenido un integrante del consejo. Quienes acudían a los cultos desde las regiones aledañas cada vez más sufrían represalias por parte de sus autoridades, e incluso gente que se había refugiado en Allstedt debía temer ser vuelta a entregar a sus superiores. Los de Allstedt estaban decididos a defenderse de intervenciones foráneas. Müntzer se esforzó en impedir la escalada en ciernes, en un intento de ganarse a los príncipes como defensores de los elegidos. El 13 de julio en presencia del duque Juan y su comitiva, Müntzer predicó sobre el segundo capítulo de Daniel en el castillo: sobre la caída de los imperios, el resurgir del régimen de Cristo y el rol que en todo ello les cabía a las autoridades seculares. Müntzer mandó a imprimir de inmediato este sermón notable en la imprenta de Allstedt, que había hecho instalar luego de haber sido clausurada la imprenta en Eilenberg. Ya en el verano de 1523, Münzter y sus seguidores más fieles se habían unido en una liga defensiva secreta; en esta situación tensa, el 24 de julio se fundó públicamente una Alianza defensiva a la que también se aspiraba integrar externos a Allstedt, que eran invitados expresamente a participar de ella (como p.ej. Orlamünde, la parroquia de Karlstadt). La reacción de Lutero se dio en su Carta a los príncipes de Sajonia sobre el espíritu subversivo (1524), donde exigía la expulsión del predicador dispuesto a emplear violencia. En un interrogatorio a Müntzer, al consejo y al recaudador de Allstedt en la corte de Weimar, a fines de julio/comienzos de agosto de 1524, Müntzer fue conminado a disolver la alianza y a despedir al impresor. Luego de un vano intento por poner de su lado al recaudador y al consejo, Müntzer abandonó la ciudad en la noche del 7 al 8 de agosto. A partir de mediados de agosto (junto al ex cisterciense Heinrich Pfeiffer) nuevamente intentó transformar el movimiento de Reforma en curso en la ciudad imperial libre de Mühlhausen en una comunidad de elegidos. En once artículos elaborados por él o con participación suya se exigía un nuevo consejo. Posiblemente, vista la agudización del conflicto con las autoridades de esa ciudad, también allí fundó una “Eterna Alianza Divina” organizada militarmente. No obstante, con el apoyo de la región circundante, el consejo logró expulsar a Müntzer y Pfeiffer a inicios de octubre.

La Protesta y Sobre la fe fingida de Müntzer fueron leídas por el grupo nucleado en torno a Konrad Grebel en Zurich; a través de Hans Hujuff de Halle, con el que tenían contacto, recibieron información adicional sobre la acción de Müntzer en Allstedt. A comienzos de setiembre, Grebel escribió en nombre de su grupo a Müntzer, “cofrade (Mitbruder) en Cristo” para encarar una “conversación futura” con él. Como en el caso de otros críticos al bautismo tradicional (en especial Karlstadt y Jacobo Strauß) también en sus textos veían aspectos que les eran comunes. En especial subrayaban la fe verdadera, lograda en el seguimiento sufrido, la crítica al bautismo de párvulos, la condena a los reformadores tibios, la purificación de la iglesia siguiendo criterios apostólicos. Pero tampoco le ocultaban cuestionamientos, como ante todo la validez de ceremonias y la disposición al empleo de violencia para imponer la Reforma. El acento estaba puesto en la búsqueda de un interlocutor, no en la crítica a un reformador radical. La carta al parecer no alcanzó al destinatario, porque Müntzer ya había salido de Allstedt, y la conversación no se produjo.

Los sublevados como herramienta en el juicio final divino

Luego de su expulsión de Mühlhausen, las huellas de Müntzer recién vuelven a reaparecer en Nuremberg. Allí Hans Hut había intermediado la impresión del Expreso desnudamiento de la falsa fe del mundo infiel en octubre de 1524 (obra que Müntzer escribió en Allstedt y volvió a retrabajar después). La misma fue confiscada por orden del consejo de Nuremberg, al igual que su ajuste de cuentas con Lutero, la Muy motivada defensa, que Müntzer mismo había entregado allí a la imprenta. Ni en Nuremberg, ni en su posterior encuentro con el reformador de Basilea (Juan Ecolampadio) Müntzer se presentó en público. No hay constancia de un encuentro con los proto-baptistas de Zurich; sí es factible una visita suya a Balthasar Hubmaier en Waldshut. Es probable que para el movimiento campesino de revuelta en la comarca Klettgau (en el sur de la Selva Negra) Müntzer escribiera Artículos sobre cómo se debe gobernar. Es probable que ahora viera en el pueblo sublevado la herramienta convocada para el juicio final divino –luego de haberse negado las autoridades instituidas a asumir ellas esa tarea–. En febrero de 1525 regresó a Mühlhausen, donde asumió el cargo de párroco en la iglesia de Santa María e impulsó la conformación de una comunidad de elegidos a la luz del Juicio Final inminente. Siguiendo la anterior propuesta de los Once Artículos se eligió un nuevo consejo “eterno”. Cuando a fines de abril la sublevación campesina llegó a Turingia, Müntzer lo interpretó como decisión divina de suspender las estructuras existentes e iniciar una separación entre elegidos e impíos. Convocó entonces a los antiguos miembros de la alianza en Allstedt y a todos los que por su fe estuvieran dispuestos a participar del levantamiento, acorde a la voluntad de Dios. Luego de una breve acción militar sobre la comarca del Eichsfeld, respondiendo a un ingente pedido de ayuda por parte de los sublevados, se dirigió con la mitad del contingente de Mühlhausen en armas a Frankenhausen, hacia donde convergían los sublevados en Turingia. Allí era de esperar el enfrentamiento decisivo con el ejército de los príncipes de Sajonia y Hesse. Luego de una escaramuza en el día previo, el 15 de mayo tuvo lugar el choque entre los oponentes. No ha sido posible aclarar del todo el desarrollo del combate. Casi sin ofrecer resistencia, la mayoría de los sublevados fue aniquilada. Müntzer fue capturado en la huida y hecho prisionero en la fortaleza de Heldrungen. Luego de interrogatorios y de haber instado a la gente de Mühlhausen a poner fin a la lucha, fue ejecutado junto con Heinrich Pfeiffer en el campamento que las fuerzas de los príncipes tenían en las afueras de esa ciudad. Como causa de la derrota, Müntzer señaló el egoísmo de los sublevados e interpretó su propia muerte como sacrificio propiciatorio por la desobediencia del pueblo a la voluntad divina. Pero no cuestionó que su encargo fuera divino.

Teología de Reforma con acento propio

No es posible determinar con claridad el marco de su convicción de ser enviado divino. Como teólogo de la Reforma con una sólida formación académica respetaba la tradición de las confesiones de la iglesia antigua (doctrina trinitaria), aunque poniendo acentos propios. El centro de su mensaje lo ocupa la tarea de desenmascarar la fe fingida, insistiendo en el inevitable camino de cada persona marcado por el sufrimiento en pos de la fe verdadera en el seguimiento de Cristo, en el anuncio del Juicio Final y en la cooperación para que sea restituido el orden originario impuesto por Dios, donde Dios tiene dominio directo sobre los seres humanos, y a su vez éstos sobre las creaturas. La argumentación de Müntzer se orientaba en la Biblia, a la que siguiendo el ejemplo de la temprana tradición eclesial, Müntzer entendió como unidad (de Antiguo y Nuevo Testamento). En general, para él, el tiempo de los apóstoles cumplía una función normativa más intensa que para el resto de los teólogos de la Reforma. En la descripción del proceso de salvación empleó formas de pensar y expresión propias de la mística del tardo-medioevo; para sus anuncios del Juicio Final y los tiempos venideros, elementos de la tradición apocalíptica. Müntzer entrelazó estos elementos provenientes de la tradición y también la idea del proceso salvífico en el interior del ser humano con la reconfiguración del mundo en la antesala del Juicio Final. El temor ante las creaturas se debía eliminar con el temor ante Dios, ése era el anclaje de su exigencia de oponerse del modo más decidido posible a las estructuras surgidas desde el temor ante las creaturas.

Repercusiones

Entre otros aspectos, la insistencia de Müntzer en una fe que realmente se hubiera experimentado, su crítica al bautismo tradicional y a un orden social estratificado en estamentos, su orientación referencial al tiempo de los apóstoles, desde temprano fueron asumidas en aquellos espacios donde se lograba consolidar una alternativa al movimiento de la Reforma luterano o zwingliano. Con título modificado y bajo el seudónimo Christian Hitz de Salzburgo fue publicada en Augsburgo en 1526 la obra de Müntzer Sobre la fe fingida. Copias de la misma seguían circulando en 1531 en círculos anabaptistas. Espiritualistas como Sebastián Franck y Valentín Weigel, al igual que el anabaptista nurembergués Hans Denck conocían los textos de Müntzer. Más adelante, Gottfried Arnold volvió a darles difusión, aunque no sin manifestar reparos. La memoria sobre la participación de Müntzer en la Guerra de los Campesinos fue consolidada en especial por los escritos en contra suya, producidos en Wittenberg. Así hasta el siglo XX continuó siendo visto siempre como el prototipo del fanático y del subversivo. La idea (que se sostuvo hasta el siglo pasado) de una estrecha vinculación del anabaptismo con Müntzer no estaba basada en primer lugar en las cartas de Grebel –pues éstas recién se conocieron en el siglo XVIII–. La responsabilidad de esta vinculación le cabe a Felipe Melanchthon, con su idea de que los comienzos del rebautismo se remontarían al círculo profético de Zwickau (Müntzer como discípulo de Nikolaus Storch) y a la descripción de los anabaptistas que elaboró Heinrich Bullinger. En especial por las investigaciones más recientes se pudo probar el influjo de Müntzer sobre el anabaptismo surgido en el centro y en el sur de Alemania a través de Juan Hut, a quien con razón se le ha dado en llamar “heredero de Müntzer” (Gottfried Seebaß).

Con su influencia en la historia del culto protestante, la piedad del seguimiento de Cristo y la conformación de una crítica a las autoridades seculares, y un derecho de resistencia ante ellas, a Thomas Müntzer se le ha de atribuir una significación histórica amplia.

Fuentes

Thomas Müntzer. Schriften und Briefe. Kritische Gesamtausgabe, unter Mitwirkung von Paul Kirn hg. von Günther Franz, Gütersloh 1968. – Thomas-Müntzer-Ausgabe. Kritische Gesamtausgabe, hg. von Helmar Junghans, Bd. 2: Briefwechsel, bearb. von Siegfried Bräuer und Manfred Kobuch, Leipzig 2010; Bd. 3: Quellen zu Thomas Müntzer, bearb. von Wieland Held und Siegfried Hoyer, Leipzig 2004. – The Collected Works of Thomas Müntzer, hg. und übersetzt von Peter Matheson, Edinburgh 1988.

Literatura

Marion Dammaschke und Günter Vogler, Thomas-Müntzer-Bibliographie (1519-2012), Baden-Baden 2013. – Gottfried Seebaß, Art. Thomas Müntzer, in: Theologische Realenzyklopädie 23, Berlin 1994, 414-436 (Lit.). – Max Steinmetz, Das Müntzerbild von Martin Luther bis Friedrich Engels, Berlin 1971. – Ingo Warnke, Wörterbuch zu Thomas Müntzers deutschen Schriften und Briefen, Tübingen 1993. – Carl Hinrichs, Luther und Müntzer. Ihre Auseinandersetzung über Obrigkeit und Widerstandsrecht. Berlin 1952. – Manfred Bensing, Thomas Müntzer und der Thüringer Aufstand 1525, Berlin 1966. – Hans-Jürgen Goertz, Innere und äußere Ordnung in der Theologie Thomas Müntzers, Leiden 1967. – Walter Elliger Thomas Müntzer. Leben und Werk. 3. Aufl., Göttingen 1976. – Reinhard Schwarz, Die apokalyptische Theologie Thomas Müntzers und der Taboriten, Berlin 1977. – James M. Stayer und Werner O. Packull (Hg.), The Anabaptists and Thomas Müntzer, Dubuque, Iowa, 1980. – Max Steinmetz, Thomas Müntzers Weg nach Allstedt, Berlin 1988. – Ulrich Bubenheimer, Thomas Müntzer. Herkunft und Bildung. Leiden 1989. – Siegfried Bräuer und Helmar Junghans (Hg.), Der Theologe Thomas Müntzer. Untersuchungen zu seiner Entwicklung und Lehre. Berlin und Göttingen 1989. – Hans-Jürgen Goertz, Thomas Müntzer. Mystiker, Apokalyptiker, Revolutionär. München 1989 (engl. und jap.). – Günter Vogler. Thomas Müntzer, Berlin 1989. – Tom Scott, Thomas Müntzer. Theology and Revolution in the German Reformation. Houndmills und London 1989. – Abraham Friesen, Thomas Muentzer, a Destroyer of the Godless. The Making of a Sixteenth Century Religious Revolutionary. Berkeley, Los Angeles und Oxford 1990. – Siegfried Bräuer, Spottgedichte, Träume und Polemik in den frühen Jahren der Reformation, hg. von Hans-Jürgen Goertz und Eike Wolgast, Leipzig 2000. – Gottfried Seebaß, Müntzers Erbe. Werk, Leben und Theologie des Hans Hut. Gütersloh 2002. – Günter Vogler, Thomas Müntzer und die Gesellschaft seiner Zeit, Mühlhausen 2003. – Günter Vogler (Hg.), Bauernkrieg zwischen Harz und Thüringer Wald, Stuttgart 2008.

Siegfried Bräuer
(trad. Alejandro Zorzin)

Aus: Mennonitisches Lexikon, Bd. 5, Teil 1, hg. von Hans-Jürgen Goertz, 2010 (www.mennlex.de)

Müntzer, Thomas, born ca. 1489 in Stolberg am Harz, executed May 27, 1525, near Mühlhausen, Germany, preacher and prominent participant in the German Peasants’ War 1525.

Origins, Education, pre-Reformation Activity

Like Martin Luther, Thomas Müntzer was born in a Harz Mountain lordship whose economy was oriented to mining. The persons of that name from the fifteenth century onwards belonged overwhelmingly to the urban upper class and had an occupational connection to the ruling counts. Müntzer’s parents have not been identified up to now, and there is no verifiable connection between his social origins and his later development. Presumably he received his schooling in Quedlinberg, after which he matriculated in Leipzig University as “Thomas Munczer de Quedilburck” in the winter semester 1506/07. At the beginning of the winter semester 1512/13 he was enrolled as “Thomas Müntczer Stolbergensis” in the university at Frankfurt a. d. Oder. There is no information available about the length and content of his studies, nor about his contacts with teachers and fellow students. Nor is there any evidence in extant university records of his graduation as master of arts (first mentioned in 1515) or his receipt of the baccalaureus biblicus (first mentioned in 1521). Probably in intervals during his university studies he practiced the usual interim occupation of Latin school teacher in Aschersleben and Halle. After his ordination as priest in the Halberstadt diocese the old council of the city of Brunswick on May 6, 1514, endowed him with a lightly funded altar benefice at the church of St. Michael. Possibly in this Hanseatic city he also instructed private students from upwardly mobile families of merchants and artisans, persons searching for deeper biblical piety in the framework of the popular mysticism of the late middle ages. In 1515/16 he was prefect of the chapter of female canons at Frose near Aschersleben. Here he was in charge of the small contingent of priests assigned to the chapter. At the same time he instructed young men from the circle of his acquaintances among the citizens of Brunswick. When the issues surrounding indulgences were discussed in Brunswick due to the activities of Johann Tetzel, Müntzer criticized indulgences before Luther began to do so. It is unclear whether this controversy made it necessary for him to leave Brunswick, and possibly to seek clarity about indulgences at Wittenberg.

More Rigorous Ally of the Wittenberg Reformers

Müntzer’s stay in Wittenberg extended from 1517 to 1519 with frequent interruptions, such as a journey to Franconia. While at Wittenberg he engaged in humanistic and theological studies, joined the early Reformation movement and came in contact with its representatives. At Easter 1519 he substituted in Jüterbog for the resident preacher, Franz Günther, who had gotten into a conflict with the local Franciscans. Müntzer’s engaged early Reformation critique of the church sharpened this conflict, one of the antecedents of the Leipzig Disputation, and it won the support of Luther. At the time he assumed the post of father confessor of a cloister of Cistercian nuns at Beuditz near Weißenfels in 1519 we see the first evidence of Müntzer’s personal sense of mission. Here he found leisure for intensive study of ancient authors, of church fathers (particularly Augustine), the history of the early church, as well as documents of the reform councils of Constance and Basel.

With Luther’s endorsement in May 1520 Müntzer began a longer appointment as substitute preacher for the humanist reformer Johann Egranus at St. Mary’s church in Zwickau, an important economic and cultural center. He thought of this position as a call for a rigorous proclamation of the Reformation. His very first sermon occasioned a conflict with the influential local Franciscans, which had to be damped down with the help of the town council and the resident official of the Electoral Saxon government. After the return of Egranus, Müntzer was installed in the vacant position of preacher at the second town church, St. Catherine’s. There were no substantial social differences between the two parishes. In contrast to Egranus’ Erasmian conception of the Reformation, Müntzer proclaimed an experiential certainty of salvation, patterned on his understanding of the apostolic age and the working of the Holy Spirit. A lay circle of followers, centered on the cloth maker Nikolaus Storch, and characterized by an experiential piety, criticism of infant baptism and apocalyptic expectations, supported Müntzer. Egranus and his supporters, on the contrary, advocated a more traditional reform Christianity. Müntzer’s group pilloried Egranus and his flock as merely external supporters of the Reformation who inwardly rejected the new gospel, thus polarizing the controversy. On April 16, 1521, Müntzer was discharged from his post by the Zwickau council and this earliest controversy among supporters of the Reformation was for the time being calmed down.

With his sense of mission unbroken Müntzer left Zwickau and traveled to Bohemia, where he had even before that time imagined he would find better Christians. As a prophetic servant of God and in view of the imminence of divine judgment, he wanted to win the Bohemians for the institution of a purified church modeled on the church of the apostles. Obviously, at the beginning he was regarded in Prague university circles as a representative of the Wittenberg Reformation. He gave expression to his sharpened anticlerical polemic and to the main points of his proclamation – discipleship, living experience of God, and restoration of the original order of creation – in an epistle of November 1521 which he produced in one Latin, two German, and one Czech version. He found only limited response, was put under observation, and obliged to leave Bohemia before the end of the year. In the course of 1522 there are only scattered traces of Müntzer’s efforts to secure a position from which he could launch his mission. At the end of 1522 and the beginning of 1523 he obtained a post as chaplain at the cloister of Cistercian nuns at Glaucha near Halle, which he was obliged to leave after three months.

Creating a Congregation of the Elect before the Approaching Judgment

At Easter 1523 Müntzer was able to assume the pastorate of the new city church in the Electoral Saxon enclave Allstedt, and to address himself forthwith to the renovation of the worship service. He translated the order of a German mass from the Latin missal, and the order of German weekly services from the traditional hourly prayers, with five patterns of worship for the church year. Probably in the course of 1523 he prepared these German worship services (the first that came into actual use) for print with Nikolaus Wiedemar in Eilenburg. He quickly established himself in Allstedt, married the former nun Ottilie von Gersen, and undertook to transform the new city church of Allstedt into a congregation of the elect. His attempt to renew contact with Luther came to nothing, but he did renew his connection to Andreas Karlstadt. Quite soon his worship services proved to be very attractive throughout the whole region. They disturbed rulers opposed to the Reformation, particularly since the renewal of the Edict of Worms was promulgated by the Reichsregiment to the Saxon princes in May 1523. It was probably in this situation that Müntzer composed his first printed writing, “An Open Letter to his dear brothers in Stolberg solemnly warning them to shun unjustifiable rebellion” (1523). He stressed that the beginning of the rule of Christ could only come after the elect had attained true faith.

In September 1523 Müntzer came into open conflict with Count Ernst of Mansfeld, after the count repeatedly forbade his subjects to attend the “heretical” worship service at Allstedt, in response to which Müntzer stigmatized him as an enemy of the gospel. When the Elector of Saxony became involved, Müntzer justified himself with his divinely bestowed preaching commission and the princes’ duty to extend protection, since their office was subordinate to the judgment of God. He published with Wiedemar his Order and Explanation of the German Church Service at Allstedt (1523), an explanation of his order of the mass, baptism, marriage, communion for the sick, and burial. In Allstedt Müntzer continued the practice of infant baptism, although he stressed the responsibility of the godparents to see to the education in the faith of the maturing children. It is uncertain whether Müntzer’s short memo about an annual baptism ceremony and the postponement of baptism until age six or seven stems from the Allstedt period. Probably the conflict about Müntzer’s reform of the worship service and the content of his preaching first came to light during the stay of Elector Frederick and his entourage at Allstedt castle from November 4 to November 14, 1523, during their journey to attend the Imperial Diet at Nuremberg. Possibly this was the occasion for the appearance of the critical tract, Protestation or proposition by Thomas Müntzer from Stolberg in the Harz mountain, now pastor of Allstedt, about his teachings, beginning with true Christian faith and baptism (1523). In the aftermath of the “doctrinal discussions” at the castle he perhaps published his last small writing: On Counterfeit Faith (1523). He demanded that the assumed (counterfeit) faith be replaced by the true faith, which could only be attained by following the suffering Christ.

In spring 1524 the Ernestine Saxon rulers of Allstedt intervened once again, when adherents of Müntzer burned down the nearby Mallerbach field chapel of the cloister of Naundorf and the abbess demanded the punishment of the guilty. The Allstedt council and the castellan Hans Zeiß were able to delay an investigation. Only in June was a council member arrested due to pressure from Duke John. Outsiders who attended the Allstedt worship services were increasingly subjected to reprisals by their rulers; and even those who had taken refuge in Allstedt had to expect extradition. The Allstedters wanted to take arms against these outside interventions. At the time Müntzer tried to stop this escalation of violence by winning over the rulers for the defense of the elect. On July 13 he preached a sermon on Daniel 2 at the castle before Duke John and his entourage – on the fall of the world’s empires, the rise of the lordship of Christ, and the role which was expected of rulers in this transition. This remarkable sermon was immediately printed by the Allstedt press which Müntzer had established after the closing of the printing house in Eilenburg. Even before this in the summer of 1523 Müntzer had organized his followers into a secret league for mutual protection; and now in the present tense situation on July 24 he gave this league a public form, admitted outsiders, and undertook to spread it to other places, such as Orlamünde. Luther responded with his Letter to the Princes of Saxony about the Rebellious Spirit (1524), in which he demanded that Müntzer should be banished from the territory as a preacher who was ready to resort to violence. In a hearing at the princely residence in Weimar, to which Müntzer, the Allstedt council, and castellan Zeiß were subjected at the end of July and the beginning of August 1524, Müntzer was admonished to dissolve his league and to discharge his printer. After a vain attempt to win the council and castellan to his side, Müntzer left Allstedt in the night of August 7/8. From the middle of August he undertook, together with the former Cistercian Heinrich Pfeiffer, to build up a congregation of the elect on the basis of the Reformation movement in the free Imperial city of Mühlhausen. Eleven articles, written either by Müntzer or with his participation, demanded a new council for Mühlhausen. Probably in connection with the sharpening conflict with the city government, at this time an “eternal covenant of God” was founded and given a military organization. However, at the beginning of October, with the help of a levy of its rural subjects, the Mühlhausen council succeeded in forcing Müntzer and Pfeiffer into exile.

Müntzer’s Protestation and On the Counterfeit Faith came into the hands of the proto-Anabaptists around Conrad Grebel in Zurich; and through Hans Hujuff from Halle, one of their close associates, they received further information about Müntzer’s activities in Allstedt. At the beginning of September Grebel wrote on behalf of his group to Müntzer, whom he called his “brother in Christ,” with the object of undertaking a “future mutual discussion” with him. They found commonalities in his writings, as they did with other critics of traditional infant baptism, above all Andreas Karlstadt and Jakob Strauß. The letter emphasized the true faith attained in suffering discipleship, criticism of infant baptism, denunciation of the half-heartedness of the Reformers, and the purification of the church according to apostolic norms. However, it did not hesitate to express reservations about Müntzer’s ideas of the validity of ceremonies and his readiness to use force in implementing the Reformation. Still, the stress was on the search for a discussion partner rather than on criticism of Müntzer as a radical Reformer. The letter probably never reached Müntzer, since he had already left Allstedt, so the hoped for discussion never took place.

Hopes for the Peasant Rebels as the Instrument of Divine Judgment

After his banishment from Mühlhausen we next find evidence of Müntzer in Nuremberg. The revised Allstedt writing, A Manifest Exposé of False Faith, which Hans Hut saw through the press, was confiscated by the Nuremberg Council in October 1524. In December the same fate befell his settling of accounts of with Luther, whose printing he himself took in hand – A Highly Provoked Vindication and Refutation of the unspiritual soft-living flesh in Wittenberg. Müntzer did not appear in public, either in Nuremberg or in his subsequent meeting with the Basel Reformer Oecolampadius. There is no evidence for his meeting the proto-Anabaptists of Zurich, although a visit to Balthasar Hubmaier in Waldshut is a possibility. Possibly Müntzer authored “articles about the exercise of authority” for the peasant rebel movement in the Klettgau. Seemingly he regarded the rebellious commons as the chosen instrument of divine judgment in the aftermath of the regular governments’ refusal to assume this task. In February 1525 he returned to Mühlhausen, took over the pastorate of St. Mary’s church, and set about to create a congregation of the elect in expectation of imminent divine judgment. After the presentation of the Eleven Articles a new, “eternal council” was chosen for Mühlhausen. When the southwest German rebellion spread to Thuringia in late April, Müntzer saw this as a decision of God to remove the previous authorities and to initiate the separation of the elect from the godless. Now he called the members of the previous league in Allstedt as well as all the faithful to join the rebellion in accordance with God’s will. After a short military expedition in the Eichsfeld region, he responded at the head of half of the Mühlhausen contingent to the pressing calls for help of the Thuringian rebels who had assembled at Frankenhausen. There occurred the decisive battle with the advancing princely armies of Hesse and Saxony (Peasants’ War). After a skirmish on the previous day the enemy forces collided on May 15. The course of the battle is not easy to understand. Most of the rebels were slaughtered, almost without offering resistance. Müntzer was apprehended in flight and imprisoned in Heldrungen Castle. After an interrogation he was executed, together with Heinrich Pfeiffer, in the princely camp before Mühlhausen, after he had called upon the people of Mühlhausen to abandon the struggle. He singled out the greed of the rebels as the cause of the defeat; and he understood his death as a propitiatory sacrifice for the people’s disobedience to the will of God. However he did not question his own divine commission.

Reformation Theology with a Personal Style

The theological contours of Müntzer’s self-understanding are difficult to determine with clarity. As an academically educated Reformation theologian, he respected the confessional tradition of the medieval church (e.g. the doctrine of the Trinity) but with his personal accents. At the center of his proclamation was the endeavor to unmask the “counterfeit” faith. He wanted to clarify the indispensable, suffering path of every human being in a true faith in the footsteps of Christ, to announce divine judgment, and to undertake to restore the original order of God with God’s lordship over human beings and human lordship over the creatures. In his argumentation Müntzer oriented himself on the Bible, which he understood, in the manner of the tradition of the early church, as a unity. Altogether the apostolic era had a stronger normative function for him than it did for most theologians of the Reformation. In his description of the process of salvation, he used the conceptions and expressions of late medieval mysticism; in his statements about the coming judgment and about the future he drew on elements from the apocalyptic tradition. Müntzer combined these traditional elements, so that he connected ideas about the salvific process in individuals with programs for the ordering of the world in view of the imminent divine judgment. The fear of creatures was to be replaced by the fear of God; this was the root of his call for decisive resistance against the institutions which were grounded in the fear of creatures.

Historical Impact

Müntzer’s emphasis on an experienced faith, his criticism of traditional baptism and the order of estates, as well as his orientation to the apostolic era, were positively received quite early wherever a different conception of faith from that of the Lutheran or Zwinglian Reformations came to the fore. With an altered title and under the pseudonym Christian Hitz from Salzburg, his writing On the Counterfeit Faith was published in 1526 in Augsburg. Copies were still circulating among Anabaptists in 1531. Spiritualists such as Sebastian Franck and Valentin Weigel were acquainted with Müntzer’s writings – as was the case with the Nuremberg Anabaptist Hans Denck. Later Gottfried Arnold worked for a renewed, however reserved, reception of Müntzer’s writings. Müntzer’s participation in the Peasants’ War was kept fresh in the memories of later generations, above all through polemical writings originating in Wittenberg, so that into the twentieth century he was seen as the archetypical rebel and fanatic. The idea of a close connection of Müntzer with the Anabaptist movement, which also persisted into the twentieth century, was not at first based on the Grebel letter, which only became known in the eighteenth century. Rather, this notion (and the related notion of a connection between Müntzer and the Anabaptist kingdom in Münster) was based above all on the idea of Philip Melanchthon that Anabaptism arose among the Zwickau Prophets (Müntzer was supposedly a disciple of Nikolaus Storch), as well as the presentation of the Anabaptists in the writings of Heinrich Bullinger. Recent scholarship has confirmed an influence of Müntzer on central and south German Anabaptists, transmitted above all through Hans Hut, who was correctly labeled one of Müntzer’s heirs by Gottfried Seebaß.

Thomas Müntzer can be recognized as a figure of general historical importance in view of his influence on the history of Protestant worship, his piety of discipleship of Christ, and his widening of the Christian teaching about critique of established authority and the right of resistance.

Sources

Thomas Müntzer. Schriften und Briefe. Kritische Gesamtausgabe, unter Mitwirkung von Paul Kirn hg. von Günther Franz, Gütersloh 1968. – Thomas-Müntzer-Ausgabe. Kritische Gesamtausgabe, hg. von Helmar Junghans, Bd. 2: Briefwechsel, bearb. von Siegfried Bräuer und Manfred Kobuch, Leipzig 2010; Bd. 3: Quellen zu Thomas Müntzer, bearb. von Wieland Held und Siegfried Hoyer, Leipzig 2004. – The Collected Works of Thomas Müntzer, hg. und übersetzt von Peter Matheson, Edinburgh 1988.

Literature

Marion Dammaschke und Günter Vogler, Thomas-Müntzer-Bibliographie (1519-2012), Baden-Baden 2013. – Gottfried Seebaß, Art. Thomas Müntzer, in: Theologische Realenzyklopädie 23, Berlin 1994, 414-436 (Lit.). – Max Steinmetz, Das Müntzerbild von Martin Luther bis Friedrich Engels, Berlin 1971. – Ingo Warnke, Wörterbuch zu Thomas Müntzers deutschen Schriften und Briefen, Tübingen 1993. – Carl Hinrichs, Luther und Müntzer. Ihre Auseinandersetzung über Obrigkeit und Widerstandsrecht. Berlin 1952. – Manfred Bensing, Thomas Müntzer und der Thüringer Aufstand 1525, Berlin 1966. – Hans-Jürgen Goertz, Innere und äußere Ordnung in der Theologie Thomas Müntzers, Leiden 1967. – Walter Elliger Thomas Müntzer. Leben und Werk. 3. Aufl., Göttingen 1976. – Reinhard Schwarz, Die apokalyptische Theologie Thomas Müntzers und der Taboriten, Berlin 1977. – James M. Stayer und Werner O. Packull (Hg.), The Anabaptists and Thomas Müntzer, Dubuque, Iowa, 1980. – Max Steinmetz, Thomas Müntzers Weg nach Allstedt, Berlin 1988. – Ulrich Bubenheimer, Thomas Müntzer. Herkunft und Bildung. Leiden 1989. – Siegfried Bräuer und Helmar Junghans (Hg.), Der Theologe Thomas Müntzer. Untersuchungen zu seiner Entwicklung und Lehre. Berlin und Göttingen 1989. – Hans-Jürgen Goertz, Thomas Müntzer. Mystiker, Apokalyptiker, Revolutionär. München 1989 (engl. und jap.). – Günter Vogler. Thomas Müntzer, Berlin 1989. – Tom Scott, Thomas Müntzer. Theology and Revolution in the German Reformation. Houndmills und London 1989. – Abraham Friesen, Thomas Muentzer, a Destroyer of the Godless. The Making of a Sixteenth Century Religious Revolutionary. Berkeley, Los Angeles und Oxford 1990. – Siegfried Bräuer, Spottgedichte, Träume und Polemik in den frühen Jahren der Reformation, hg. von Hans-Jürgen Goertz und Eike Wolgast, Leipzig 2000. – Gottfried Seebaß, Müntzers Erbe. Werk, Leben und Theologie des Hans Hut. Gütersloh 2002. – Günter Vogler, Thomas Müntzer und die Gesellschaft seiner Zeit, Mühlhausen 2003. – Günter Vogler (Hg.), Bauernkrieg zwischen Harz und Thüringer Wald, Stuttgart 2008.

Siegfried Bräuer
(Trans. by James M. Stayer)

Aus: Mennonitisches Lexikon, Bd. 5, Teil 1, hg. von Hans-Jürgen Goertz, 2010 (www.mennlex.de)

Über Müntzer informieren unter anderem folgende Museen und Erinnerungsstätten:

Erinnerungsorte in Mühlhausen:

  • Thomas-Müntzer-Denkmale am Inneren Frauentor und am Eckhaus Bahnhofstraße/Thomas-Müntzer-Straße
  • Bauernkriegsmuseum Kornmarktkirche
  • St. Marien – Müntzergedenkstätte
  • Rathaus mit Reichsstädtischem Archiv
  • Stadtmauer mit begehbarem Wehrgang

Weitere Erinnerungsorte:

  • Allstedt
  • Bad Frankenhausen
  • Heldrungen
  • Stolberg
  • Zwickau

Thomas Müntzer war eine denkwürdige Persönlichkeit – ein umtriebiger Seelsorger und eigenwilliger Theologe, der sich in den großen Bewegungen seiner Zeit engagierte. Seine Predigten zogen viele Menschen an, aber er wurde wiederholt vertrieben, und er blieb umstritten bis in unsere Zeit. Nach der Verteufelung und Instrumentalisierung ebnete erst im 20. Jh. die Forschung allmählich den Weg zu einem versachlichten Müntzerbild.

Um 1490 in Stolberg am Harz geboren, studierte er in Leipzig und Frankfurt/ Oder und vielleicht auch in Wittenberg. Nach der Priesterweihe in der Diözese Halberstadt 1514 stand er in mehreren Orten zwischen Braunschweig und Jüterbog in Kirchen- und Schuldienst, seit 1520 dann in Zwickau. Als er dort wegen eines angeblich angestifteten Aufruhrs entlassen wurde, wollte er von Prag aus eine Reformation der ganzen Christenheit anstoßen. Doch ein Echo blieb aus. Nun verstand er sich als „williger Botenläufer Gottes“, bis er Ostern 1523 im kursächsischen Allstedt als Prediger angenommen wurde, seine Vorstellung von der Reformation – in kritischer Distanz zu Martin Luther – verbreitete und im Gottesdienst praktizierte.

Als die sächsischen Fürsten seine Tätigkeit beschränkten, verließ er im August 1524 Allstedt und hielt sich bis Oktober in Mühlhausen auf. Hier ausgewiesen, reiste er über Nürnberg und Basel in den südlichen Schwarzwald, wo inzwischen der Bauernkrieg begonnen hatte. Im Februar 1525 nach Mühlhausen zurückgekehrt, sah er in den aufständischen Bauern die Werkzeuge Gottes, die nun „die Veränderung der Welt“ herbeiführen sollten. Mit einem Mühlhäuser Aufgebot zog Müntzer nach Frankenhausen. Doch die Aufständischen unterlagen am 15. Mai 1525 den Fürstenheeren. Müntzer wurde gefangen genommen, in Heldrungen verhört und am 27. Mai bei Mühlhausen hingerichtet.

Müntzer verstand sich als von Gott gesandter Prophet und die Reformation und den Bauernkrieg als „Zeit der Ernte“, in der sich apokalyptische Erwartungen erfüllten. Die Menschen in die „Ordnung Gottes“ zurückzuführen, von der sie abgefallen seien, schloß eine radikale Umgestaltung der Gesellschaft ein. Auf lange Sicht bedienten sich kirchen- und gesellschaftskritische Bewegungen seiner Argumente.

Prof. Dr. Günter Vogler

Neuer Lexikonartikel

Müntzer, Thomas, geb. um 1489 in Stolberg am Harz, hingerichtet am 27. Mai 1525 bei Mühlhausen (Thür.), Deutschland; Prediger und führend beteiligt am Bauernkrieg 1525.

Herkunft, Bildung, vorreformatorisches Wirken

Wie Martin Luther stammt auch Thomas Müntzer aus einer Harzgrafschaft, die von der Montanwirtschaft geprägt war. Die bisher in Stolberg seit dem 15. Jahrhundert nachgewiesenen Namensträger gehörten überwiegend zur städtischen Oberschicht und standen in beruflicher Beziehung zum Grafenhaus. Die Eltern Müntzers sind bislang nicht identifiziert, und ein Einfluss des sozialen Umfelds auf seine Entwicklung ist nicht zu erkennen. Seine Schulbildung erhielt er vermutlich in Quedlinburg, denn er wurde zu Beginn des Wintersemesters 1506/07 als „Thomas Munczer de Quedilburck“ an der Leipziger Universität eingeschrieben. An der Universität in Frankfurt a. d. Oder ist er zu Beginn des Wintersemesters 1512/13 als „Thomas Müntczer Stolbergensis“ eingetragen. Über Dauer und Inhalt seines Studiums ist genauso wenig bekannt wie über Kontakte zu Lehrern und Kommilitonen. Auch über seine Graduierung als Magister artium (erstmals erwähnt 1515) und Baccalaureus biblicus (erstmals erwähnt 1521) existiert kein universitärer Nachweis. Wahrscheinlich hat er zwischen den Studienaufenthalten den üblichen Plattformberuf eines Lateinschullehrers in Aschersleben und Halle ausgeübt. Nach seiner Weihe als Priester der Diözese Halberstadt präsentierte ihn der Braunschweiger Altstadtrat am 6. Mai 1514 für ein gering dotiertes Altarlehen an der Michaeliskirche. Möglicherweise unterrichtete er in der Hansestadt nebenher Privatschüler aus der aufstrebenden Gruppe von Fernhändlern und Handwerkern, die sich auf der Suche nach vertiefter bibelorientierter Frömmigkeit unter Einfluss der spätmittelalterlichen volkstümlichen Mystik um Müntzer scharte. 1515/16 wurde er Präfekt des Kanonissenstifts Frose bei Aschersleben. Hier hatte er sich um die wenigen Stiftsgeistlichen zu kümmern. Nebenher unterrichtete er Bürgersöhne aus dem Braunschweiger Bekanntenkreis. Als 1517 die Ablassproblematik durch die Aktivitäten Johann Tetzels auch in Braunschweig diskutiert wurde, hat Müntzer noch vor Luther dazu kritisch Stellung genommen. Ob er daraufhin Braunschweig verlassen musste und sich nach Wittenberg begab, um sich Klarheit über den Ablass zu verschaffen, ist nicht gesichert.

Konsequenter Mitstreiter der Wittenberger Reformatoren

Seinen Wittenbergaufenthalt zwischen 1517 und 1519 mit mehrmaliger Unterbrechung (Reise nach Franken) nutzte er für humanistische und theologische Studien, schloss sich der frühreformatorischen Bewegung an und trat in Kontakt mit deren Repräsentanten. Ostern 1519 vertrat er den Prediger Franz Günther in Jüterbog, der mit den ortsansässigen Franziskanern in Konflikt geraten war. Müntzers engagierte frühreformatorische Kirchenkritik verschärfte den Konflikt, der zum Vorfeld der Leipziger Disputation gehörte und in dem er den Beistand Luthers erhielt. Ansätze eines persönlichen Sendungsbewusstseins sind erstmalig erkennbar, nachdem er 1519 die Stelle eines Beichtvaters im Zisterzienserinnenkloster Beuditz bei Weißenfels angenommen hatte. Hier fand er auch Muße zu intensivem Studium antiker Autoren, der Kirchenväter, besonders Augustins, der Geschichte der frühen Kirche, aber auch der Akten der Reformkonzile von Konstanz und Basel.

Auf Empfehlung Luthers trat Müntzer im Mai 1520 eine längere Predigtvertretung für den reformhumanistischen Johann Egranus an St. Marien in dem wichtigen Wirtschafts- und Bildungszentrum Zwickau an und verstand diese Vertretung als Berufung zur konsequenten reformatorischen Verkündigung. Bereits seine erste Predigt löste einen Konflikt mit den einflussreichen Franziskanern aus, der mit Hilfe des Rates und des kurfürstlichen Amtmanns beigelegt wurde. Nach Egrans Rückkehr erhielt Müntzer die freie Predigerstelle an der zweiten Stadtkirche St. Katharinen. Wesentliche soziale Unterschiede existierten zwischen beiden Pfarrsprengeln nicht. Im Gegensatz zu Egrans erasmischer Auffassung von Reformation verkündigte Müntzer eine an der Apostelzeit orientierte und unter der Wirkung des Heiligen Geistes erlebbare Glaubensgewissheit. Geführt von dem Tuchmacher Nikolaus Storch sammelte sich um ihn ein Laienkreis mit einer Art reformatorischer Erweckungsfrömmigkeit, mit Kritik an der Kindertaufe und mit apokalyptischen Erwartungen. Egran und seine Predigthörer vertraten dagegen ein eher traditionell ausgerichtetes Reformchristenstum. Müntzers Anhänger prangerten Egran und dessen Anhang als scheinreformatorische Verweigerer des erneuerten Evangeliums an und polarisierten den Konflikt. Am 16. April 1521 wurde Müntzer vom Rat entlassen, und die Spannungen durch die früheste Differenzierung innerhalb der reformatorischen Bewegung waren vorerst entschärft.

Müntzer verließ die Stadt und zog mit ungebrochenem Sendungsbewusstsein nach Böhmen, wo er schon früher die besseren Christen gewähnt hatte. Als prophetischer Knecht Gottes wollte er sie angesichts des Gottesgerichts für den Beginn einer nach dem Vorbild der Apostelzeit gereinigten Kirche gewinnen. Offenbar wurde er anfangs in Prager Universitätskreisen als Repräsentant der Wittenberger Reformation angesehen. Seine verschärfte antiklerikale Polemik und seine Verkündigungsschwerpunkte (Christusnachfolge, lebendige Gotteserfahrungen, Wiederherstellung der ursprünglichen Schöpfungsordnung) legte er im November 1521 in einer lateinischen, zwei deutschen und einer tschechischen Fassung eines Sendbriefes dar. Er fand nur eingeschränkt Gehör, wurde unter Aufsicht gestellt und noch vor Jahresende genötigt, das Land zu verlassen. Bis zum Jahresende 1522 gibt es dann nur Spuren von Versuchen Müntzers, eine Anstellung und einen neuen Ansatzpunkt für seine Sendung zu finden. Um die Jahreswende 1522/23 erhielt er eine Kaplanstelle im Zisterzienserinnenkloster Glaucha bei Halle, die er nach drei Monaten allerdings wieder verlassen musste.

Für eine Gemeinde der Auserwählten angesichts des nahenden Gerichts

Noch Ostern 1523 konnte er die Pfarrstelle an der Neustadtkirche in der kursächsischen Enklave Allstedt übernehmen und die anstehende Neuordnung des Gottesdienstes sogleich in Angriff nehmen. Er übersetzte Ordnungen einer deutschen Messe aus dem Lateinischen Messbuch und aus den Stundengebeten Ordnungen eines deutschen Wochengottesdienstes, jeweils für fünf Kirchenjahreszeiten. Diese ersten vollständigen deutschen, schon praktizierten Gottesdienstordnungen hat er vermutlich noch im selben Jahr für den Druck bei Nikolaus Wiedemar in Eilenburg vorbereitet. Er fasste in Allstedt schnell Fuß, heiratete die ehemalige Nonne Ottilie von Gersen und betrieb den Umbau der Allstedter Neustadtkirche zu einer Gemeinde der Auserwählten. Die erneute Kontaktaufnahme zu Luther misslang, die zu Andreas Karlstadt kam zustande. Bald schon übten seine Gottesdienste eine große Anziehungskraft auf die ganze Region aus. Sie beunruhigten die antireformatorischen Obrigkeiten, vor allem als die Erneuerung des Wormser Mandats durch das Reichsregiment den sächsischen Fürsten im Mai 1523 zugegangen war. Vor diesem Hintergrund entstand wohl Müntzers erste Druckschrift, der Ernste sendebreff an seine lieben bruder zu Stolberg unfuglichen auffrur zu meiden (1523). Er betonte, dass die Ankunft der Christusherrschaft den wahren Glauben voraussetzt, der von den Auserwählten zu erlangen sei.

Im September 1523 kam es zum offenen Konflikt mit Graf Ernst von Mansfeld auf Heldrungen, nachdem dieser seinen Untertanen mehrfach den Besuch der „ketzerischen“ Gottesdienste in Allstedt verboten und Müntzer ihn darauf hin zum Feind des Evangeliums erklärt hatte. Als der Kurfürst eingeschaltet wurde, rechtfertigte sich Müntzer mit dem Hinweis auf seinen Predigtauftrag durch Gott und die Schutzpflicht der Fürsten, deren Amt durch das Gottesgericht befristet sei. Als Verteidigung der Gottesdienstreform erschien bei Wiedemar seine Ordnung vnd berechnunge des Teutschen ampts zu Allstadt (1523), eine Erläuterung seiner Ordnung der Messe, der Taufe, Trauung, des Krankenabendmahls und der Bestattung. Müntzer hat in Allstedt an der Kindertaufe festgehalten, aber den Paten ihre Verantwortung für die Glaubenserziehung der Heranwachsenden eingeschärft. Ob die überlieferten Erwägungen zur Einführung eines jährlichen Tauftermins und zu einem Taufaufschub bis ins 6. bzw. 7. Lebensjahr noch aus der Allstedter Zeit stammen, ist nicht sicher. Vermutlich ist der Konflikt um Müntzers Gottesdienstreform und seine Verkündigung erst während eines Aufenthalts von Kurfürst Friedrich und Gefolge vom 4. bis 14. November 1523 auf Schloss Allstedt während einer Reise zum Nürnberger Reichstag geklärt worden. Eventuell aus diesem Anlass erschien der kritische Traktat Protestation odder empietung Tome Mu(e)ntzers von(n) Stolberg am Hartzs seelwarters zu Allstedt seine lere betreffend vnd zum anfang von dem rechten Christen glawben vnnd der taufe (1523). Im Nachgang zu den „Lehrgesprächen“ auf dem Schloss hat Müntzer vielleicht seine letzte kleine Schrift veröffentlicht: Von dem gedichten glawben (1523). Er forderte, dass der anerzogene (gedichtete) Glaube durch den wahren ersetzt werden müsse, der nur in der Leidensnachfolge Christi zu erlangen sei.

Im Frühjahr 1524 schalteten sich die ernestinischen Landesherren erneut ein, als Anhänger Müntzers die nahe gelegene Mallerbacher Feldkapelle des Klosters Naundorf niedergebrannt hatten und die Äbtissin die Bestrafung der Täter forderte. Lange konnten der Allstedter Rat und der Schosser Hans Zeiß eine Untersuchung hinauszögern. Erst im Juni wurde auf Druck von Herzog Johann ein Ratsmitglied verhaftet. Auswärtige Gottesdienstbesucher waren zunehmend Repressalien durch die Obrigkeiten ausgesetzt und selbst nach Allstedt Geflohene mussten mit ihrer Auslieferung rechnen. Die Allstedter wollten sich gegen Eingriffe von außen zur Wehr setzen. Müntzer bemühte sich, die drohende Eskalation durch einen Versuch zu verhindern, die Landesherren für den Schutz der Auserwählten zu gewinnen. Am 13. Juli hielt er vor Herzog Johann und Gefolge auf dem Schloss eine Predigt über Daniel 2: vom Niedergang der Weltreiche, dem Aufstieg der Christusherrschaft und der Rolle, die den Obrigkeiten dabei zugedacht sei. Diese bemerkenswerte Predigt wurde sofort in der Allstedter Druckerei, die Müntzer nach der Schließung der Eilenburger Offizin hatte einrichten lassen, gedruckt. Bereits im Sommer 1523 hatte Müntzer seine Getreuen in einem geheimen Schutzbund gesammelt und in dieser angespannten Lage formierte sich am 24. Juli in aller Öffentlichkeit ein Verteidigungsbündnis, dem auch Auswärtige angehörten und das auch an anderen Orten angestrebt wurde (z. B. in Orlamünde). Luther reagierte mit seinem Brief an die Fürsten zu Sachsen von dem aufrührerischen Geist (1524), in dem er die Landesverweisung des gewaltbereiten Predigers forderte. In einem Verhör von Müntzer, Rat und Schosser am Weimarer Hof Ende Juli/Anfang August 1524 wurde Müntzer ermahnt, der Bund sollte aufgelöst und der Drucker entlassen werden. Nach seinem vergeblichen Versuch, Schosser und Rat auf seine Seite zu ziehen, verließ Müntzer in der Nacht vom 7. auf den 8. August die Stadt und versuchte ab Mitte August, mit dem ehemaligen Zisterzienser Heinrich Pfeiffer aus der reformatorischen Bewegung in der Freien Reichsstadt Mühlhausen wiederum eine Gemeinde der Auserwählten aufzubauen. In den von ihm oder mit seiner Beteiligung erarbeiteten Elf Artikeln wurde ein neuer Rat gefordert. Vermutlich wurde angesichts des sich zuspitzenden Konflikts mit dem Stadtregiment auch ein „ewiger Bund Gottes“ gegründet, der militärisch organisiert war. Mit Hilfe eines Aufgebots aus dem Landgebiet konnte der Rat Müntzer und Pfeiffer jedoch Anfang Oktober ausweisen.

Müntzers Protestation und Von dem getichten glawben gelangten in die Hände der Prototäufer um Konrad Grebel in Zürich, und durch Hans Hujuff aus Halle, der ihnen nahestand, erhielten sie weitere Informationen über Müntzers Wirken in Allstedt. Anfang September schrieb Grebel im Namen seiner Gruppe an Müntzer, den „mitbru(o)der in Christo“, um mit ihm „ein gemein künft(i)g gesprech“ aufzunehmen. Wie bei anderen Kritikern der herkömmlichen Kindertaufe, vor allem Andreas Karlstadt und Jakob Strauß, fanden sie auch in seinen Schriften Gemeinsamkeiten. Herausgestellt wurden vor allem der in der Leidensnachfolge erworbene wahre Glaube, die Kritik an der Kindertaufe, die Verurteilung der halbherzigen Reformatoren, die Reinigung der Kirche nach apostolischen Kriterien. Bedenken wurden ebenfalls nicht verschwiegen, vor allem nicht die Geltung von Zeremonien und die Bereitschaft zur Gewaltanwendung, um die Reformation durchzusetzen. Der Akzent lag auf der Suche nach einem Gesprächspartner und nicht auf Kritik an einem radikalen Reformator. Der Brief hatte Müntzer wohl nicht erreicht, da er Allstedt bereits verlassen hatte, und ein Gespräch war nicht zustande gekommen.

Hoffnung auf die Aufständischen als Werkzeug des göttlichen Gerichts

Nach seiner Ausweisung aus Mühlhausen sind Müntzers Spuren erst wieder in Nürnberg zu erkennen. Der durch Hans Hut vermittelte Druck der überarbeiteten Allstedter Schrift Außgetrückte emplössung des falschen Glaubens der ungetrewen welt (1524) im Oktober in Nürnberg wurden durch den Rat beschlagnahmt und die im Dezember von ihm selbst in den Druck gegebene Abrechnung mit Luther, die Hoch verursachte Schutzrede und antwort wider das Gaistloße Sanfftlebende fleysch zu Wittenberg (1524) ebenfalls. Weder in Nürnberg noch bei seinem nachfolgenden Zusammentreffen mit dem Basler Reformator Oekolampad trat Müntzer öffentlich auf. Eine Begegnung mit den Zürcher Prototäufern ist nicht bezeugt, denkbar dagegen ist ein Besuch bei Balthasar Hubmaier in Waldshut. Für die bäuerliche Aufstandsbewegung im Klettgau hat Müntzer eventuell Artigkel, wye man herschen soll verfasst. Vermutlich sah er im aufständischen Volk das nunmehr berufene Werkzeug für das Gottesgericht, nachdem sich die geordneten Obrigkeiten geweigert hatten, diese Aufgabe zu übernehmen. Im Februar 1525 kehrte er nach Mühlhausen zurück, übernahm das Pfarramt an der Marienkirche und trieb den Aufbau einer Gemeinde der Auserwählten vor dem nahen Gottesgericht weiter voran. Nach der Vorgabe der Elf Artikel wurde ein neuer, ein „ewiger“ Rat gewählt. Als Ende April die aufständischen Aktivitäten auf Thüringen übergriffen, sah Müntzer darin eine Entscheidung Gottes, die bisherigen Ordnungen abzuberufen und die Trennung der Auserwählten von den Gottlosen einzuleiten. Er rief nun die ehemaligen Allstedter Bundesmitglieder und alle Glaubenswilligen auf, sich an der Erhebung nach Gottes Willen zu beteiligen. Nach einem angeforderten kurzen Kriegszug auf das Eichsfeld begab er sich auf das dringende Hilfeersuchen der Aufständischen mit der Hälfte des Mühlhäuser Aufgebots nach Frankenhausen, wo sich die Aufständischen in Thüringen sammelten. Dort wurde die Entscheidungsschlacht mit dem heranziehenden hessisch-sächsischen Fürstenheer erwartet (Bauernkrieg). Nach einem Scharmützel am Vortage trafen am 15. Mai die Gegner aufeinander. Der Ablauf der Schlacht ist nicht eindeutig zu klären. Fast ohne Gegenwehr wurden die meisten Aufständischen vernichtet. Müntzer wurde auf der Flucht gefasst und auf Schloss Heldrungen gefangen gehalten. Nach einem Verhör wurde er gemeinsam mit Heinrich Pfeiffer im Fürstenlager vor Mühlhausen hingerichtet, nachdem er die Mühlhäuer zur Beendigung des Kampfes aufgefordert hatte. Als Ursache der Niederlage benannte er den Eigennutz der Aufständischen und seinen Tod verstand er als Sühneopfer für den Ungehorsam des Volkes gegen den Willen Gottes. Seinen göttlichen Auftrag hat er jedoch nicht in Frage gestellt.

Reformatorische Theologie mit eigenen Akzenten

Der theologische Rahmen seines Sendungsbewusstseins ist nicht eindeutig zu bestimmen. Als akademisch gebildeter reformatorischer Theologe achtete er die altkirchliche Bekenntnistradition (Trinitätslehre), setzte aber eigene Akzente. Im Zentrum seiner Verkündigung stand die Aufgabe, den „gedichteten“ Glauben zu entlarven, auf dem unverzichtbaren, leidgeprägten Weg eines jeden Menschen zum wahren Glauben in der Nachfolge Christi zu bestehen, das göttliche Gericht anzukündigen und dazu beizutragen, die ursprüngliche Ordnung Gottes mit der unmittelbaren Herrschaft Gottes über die Menschen und der Menschen über die Kreaturen wiederherzustellen. In seiner Argumentation orientierte Müntzer sich an der Bibel, die er nach dem Vorbild der frühkirchlichen Tradition als Einheit verstand. Die Apostelzeit hatte insgesamt für ihn eine stärkere normierende Funktion als für die meisten reformatorischen Theologen. Für die Beschreibung des Heilsprozesses nutzte er Denk- und Ausdrucksformen der spätmittelalterlichen Mystik , für seine Gerichts- und Zukunftsankündigungen auch Elemente der apokalyptischen Tradition. Müntzer hat diese Traditionselemente miteinander verknüpft und die Vorstellungen vom Heilsprozess im Menschen mit der Gestaltung der Welt angesichts des nahenden Gerichts verbunden. Die Furcht vor den Kreaturen wurde durch die Gottesfurcht beseitigt, und darin wurzelte die Aufforderung, sich den Ordnungen, die sich der Kreaturenfurcht verdankten, aufs Entschiedenste zu widersetzen.

Wirkungen

Müntzers Betonung des erfahrenen Glaubens, seine Kritik der traditionellen Taufe und der Ständeordndung, seine Orientierung an der Apostelzeit u. a. wurden schon früh da aufgenommen, wo ein alternatives Glaubensverständnis neben der lutherischen und zwinglischen Reformationsbewegung zur Geltung gelangte. Mit verändertem Titel und unter dem Pseudonym Christian Hitz von Salzburg erschien seine Schrift gegen den Getichten glawben 1526 als Augsburger Druck. Abschriften kursierten noch 1531 in Täuferkreisen. Spiritualisten wie Sebastian Franck und Valentin Weigel kannten Müntzers Schriften, ebenfalls der Nürnberger Täufer Hans Denck. Später sorgte Gottfried Arnold erneut für eine Rezeption, wenn auch nicht ohne Vorbehalt. Müntzers Beteiligung am Bauernkrieg wurde vor allem durch die Wittenberger Gegenschriften für die Nachwelt in Erinnerung gehalten, so dass er als Prototyp eines Schwärmers und Aufrührers bis ins 20. Jahrhundert galt. Die bis ins letzte Jahrhundert vertretene Auffassung vom engen Zusammenhang der Täuferbewegung mit Müntzer gründete sich zunächst nicht auf die Grebelbriefe, die erst im 18. Jahrhundert bekannt wurden.Verantwortlich hierfür war (neben der vermuteten Verbindung von Müntzer und dem Täuferreich zu Münster) vor allem die Auffassung Philipp Melanchthons vom Ursprung der Wiedertaufe im Kreis der Zwickauer Propheten (Müntzer als Schüler Nikolaus Storchs) und die Darstellung der Täufer durch Heinrich Bullinger.Vor allem hat sich durch die neueren Forschungen ein Einfluss Müntzers auf das mittel- und oberdeutsche Täufertum über Hans Hut bestätigt, der zu Recht ein „Erbe Müntzers“ (Gottfried Seebaß) genannt wurde.

Mit seinem Enfluss auf die Geschichte des protestantischen Gottesdienstes, auf die Frömmigkeit der Christusnachfolge und auf die Ausbildung der Obrigkeitskritik und Widerstandslehre ist Thomas Müntzer eine gesamthistorische Bedeutung zuzusprechen.

Quellen

Thomas Müntzer. Schriften und Briefe. Kritische Gesamtausgabe, unter Mitwirkung von Paul Kirn hg. von Günther Franz, Gütersloh 1968. – Thomas-Müntzer-Ausgabe. Kritische Gesamtausgabe, hg. von Helmar Junghans, Bd. 2: Briefwechsel, bearb. von Siegfried Bräuer und Manfred Kobuch, Leipzig 2010; Bd. 3: Quellen zu Thomas Müntzer, bearb. von Wieland Held und Siegfried Hoyer, Leipzig 2004. – The Collected Works of Thomas Müntzer, hg. und übersetzt von Peter Matheson, Edinburgh 1988.

Literatur

Marion Dammaschke und Günter Vogler, Thomas-Müntzer-Bibliographie (1519-2012), Baden-Baden 2013. – Gottfried Seebaß, Art. Thomas Müntzer, in: Theologische Realenzyklopädie 23, Berlin 1994, 414-436 (Lit.). – Max Steinmetz, Das Müntzerbild von Martin Luther bis Friedrich Engels, Berlin 1971. – Ingo Warnke, Wörterbuch zu Thomas Müntzers deutschen Schriften und Briefen, Tübingen 1993. – Carl Hinrichs, Luther und Müntzer. Ihre Auseinandersetzung über Obrigkeit und Widerstandsrecht. Berlin 1952. – Manfred Bensing, Thomas Müntzer und der Thüringer Aufstand 1525, Berlin 1966. – Hans-Jürgen Goertz, Innere und äußere Ordnung in der Theologie Thomas Müntzers, Leiden 1967. – Walter Elliger Thomas Müntzer. Leben und Werk. 3. Aufl., Göttingen 1976. – Reinhard Schwarz, Die apokalyptische Theologie Thomas Müntzers und der Taboriten, Berlin 1977. – James M. Stayer und Werner O. Packull (Hg.), The Anabaptists and Thomas Müntzer, Dubuque, Iowa, 1980. – Max Steinmetz, Thomas Müntzers Weg nach Allstedt, Berlin 1988. – Ulrich Bubenheimer, Thomas Müntzer. Herkunft und Bildung. Leiden 1989. – Siegfried Bräuer und Helmar Junghans (Hg.), Der Theologe Thomas Müntzer. Untersuchungen zu seiner Entwicklung und Lehre. Berlin und Göttingen 1989. – Hans-Jürgen Goertz, Thomas Müntzer. Mystiker, Apokalyptiker, Revolutionär. München 1989 (engl. und jap.). – Günter Vogler. Thomas Müntzer, Berlin 1989. – Tom Scott, Thomas Müntzer. Theology and Revolution in the German Reformation. Houndmills und London 1989. – Abraham Friesen, Thomas Muentzer, a Destroyer of the Godless. The Making of a Sixteenth Century Religious Revolutionary. Berkeley, Los Angeles und Oxford 1990. – Siegfried Bräuer, Spottgedichte, Träume und Polemik in den frühen Jahren der Reformation, hg. von Hans-Jürgen Goertz und Eike Wolgast, Leipzig 2000. – Gottfried Seebaß, Müntzers Erbe. Werk, Leben und Theologie des Hans Hut. Gütersloh 2002. – Günter Vogler, Thomas Müntzer und die Gesellschaft seiner Zeit, Mühlhausen 2003. – Günter Vogler (Hg.), Bauernkrieg zwischen Harz und Thüringer Wald, Stuttgart 2008.

Siegfried Bräuer

Aus: Mennonitisches Lexikon, Bd. 5, Teil 1, hg. von Hans-Jürgen Goertz, 2010 (www.mennlex.de)

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Unter dieser Rubrik wird in unregelmäßigen Zeitabständen von neueren Forschungen zu Leben und Werk Thomas Müntzers berichtet werden. Die meisten Texte sind schon vorher in verschiedenen Zeitschriften veröffentlicht worden. Für die Mitglieder der Thomas-Müntzer-Gesellschaft sind diese Texte aber oft schwer zu erreichen, deshalb werden sie hier noch einmal gebündelt zusammengestellt.

  • Marion Dammaschke: „Das Volk wird frei werden!
    Eine Thomas-Müntzer-Biografie von Hans-Jürgen Goertz
    [PDF, 175 kB]
  • Hans-Jürgen Goertz: „Müntzerforschung nach der Wende
    (1990 bis 2003)
    [PDF, 145 kB]
  • Hans-Jürgen Goertz: Rezension von Alexander Fleischauer,
    Die Enkel fechten’s besser aus. Thomas Müntzer und die Frühbürgerliche Revolution – Geschichtspolitik und Erinnerungskultur in der DDR.
    Aschendorff Verlag, Münster 2010, kartoniert , 399 Seiten mit zahlreichen Abbildungen
    ISBN 978-3-402-12846-6.
    [PDF, 142 kB]
  • Peter Matheson: „Neuere deutsche Forschungen zu Thomas Müntzer
    (2001 – 2010)
    [PDF, 74 kB]
  • Marion Dammaschke: „Rezension von Sabine Dittrich,
    Im Schatten der Verschwörung. Liebe und Verrat in Zeiten der Reformation.

    Neufeld Verlag, Schwarzenfeld 2015, 153 Seiten, auch als E-Book
    ISBN 978-3-862-56062-2
    [PDF, 181 kB]
  1. Mühlhausen, der Bauernkrieg und Thomas Müntzer.
    Realitäten – Visionen – Illusionen.
    Protokollband zum wissenschaftlichen Kolloquium am 17. Mai 2000 in Mühlhausen/ Thür.
    Mühlhausen 2000, 133 S., ISBN 3-935547-00-5
    vergriffen
  2. Günter Vogler
    Müntzerbilder im 20. Jahrhundert.
    Tendenzen und Perspektiven der Forschung
    Mühlhausen 2001, 32 S., ISBN 3-935547-04-8
    vergriffen
  3. Hans-Jürgen Goertz
    Ende der Welt und Beginn der Neuzeit.
    Modernes Zeitverständnis im „apokalyptischen Saeculum“: Thomas Müntzer und Martin Luther
    Mühlhausen 2002, 26 S., ISBN 3-935547-04-8
    vergriffen
  4. Günter Vogler
    Thomas Müntzer und die Gesellschaft seiner Zeit
    Mühlhausen 2003, 196 S., ISBN 3-935547-06-4
    9,80 €
  5. Siegfried Bräuer
    Thomas Müntzer von Stolberg.
    Neue Forschungen zur Biographie und zum familiären Umfeld
    Mühlhausen 2003, 49 S., ISBN 3-935547-08-0
    vergriffen
  6. Thomas T. Müller
    Thomas Müntzer in der Mühlhäuser Chronistik.
    Untersuchung und Neuedition der den Bauernkrieg betreffenden Abschnitte des „Chronicon Mulhusium“.
    Mühlhausen 2004, 72 S., ISBN 3-935547-10-2
    vergriffen
  7. Eike Wolgast
    Der gemeine Mann bei Thomas Müntzer – und danach.
    Mühlhausen 2005, 37 S., ISBN 3-935547-14-5
    vergriffen
  8. Gotfried Braasch
    Wirkungen an Unstrut und Kyffhäuser
    Mühlhausen 2006, 40 S., ISBN 3-935547-18-8
    3,00 €
  9. Günter Vogler
    Das Thomas-Müntzer-Denkmal in Mühlhausen
    Die Denkmaltradition und das Monument von Will Lammert
    Mühlhausen 2007, 30 Seiten, ISBN 3-935547-21-8
    6,00 €
  10. Thomas Müntzer in der Erinnerungskultur.
    Das Beispiel bildende Kunst
    Herausgegeben von Günter Vogler
    Mühlhausen 2008, 192 Seiten, ISBN 3-935547-24-2
    vergriffen
  11. Björn Opfer-Klinger
    Zwischen Staatsideologie und Vergessen – Thomas Müntzer im deutschen Schulbuch.
    Maxie Fischer
    Der Wandel des Geschichtsbewußtseins in Ost- und Westdeutschland seit der Herstellung der deutschen Einheit. Eine Befragung zur Person Thomas Müntzers.
    Mühlhausen 2008, 52 Seiten, ISBN 3-935547-27-7
    5,00 €
  12. Thomas Kaufmann
    Thomas Müntzer, „Zwickauer Propheten“ und sächsische Radikale.
    Eine quellen- und traditionskritische Untersuchung zu einer komplexen Konstellation
    Mühlhausen 2010, 129 Seiten, ISBN 3-935547-35-8
    9,00 €
  13. Günter Vogler
    Thomas Müntzer in einer Bildergeschichte.
    Eine kulturhistorische Dokumentation
    Mühlhausen 2010, 136 Seiten, zahlr. Abb., ISBN 978-3-935547-37-6
    vergriffen
  14. Thomas Müntzer . Zeitgenossen . Nachwelt
    Siegfried Bräuer zum 80. Geburtstag
    Herausgegeben von Hartmut Kühne, Hans-Jürgen Goertz, Thomas T. Müller und Günter Vogler.
    Mühlhausen 2010, 320 Seiten, Hardcover, ISBN 978-3-935547-36-9
    16,80 €
  15. Alejandro Zorzin
    Thomas Müntzer in Lateinamerika
    Vortrag auf der Jahrestagung der Thomas-Müntzer-Gesellschaft e.V. am 8. Mai 2010 in Mühlhausen/Thüringen
    Mühlhausen 2010, 44 Seiten, ISBN 978-3-935547-41-3
    4,00 €
  16. James M. Stayer und Hartmut Kühne
    Endzeiterwartung bei Thomas Müntzer und im frühen Luthertum.
    Veröffentlichungen der Thomas-Müntzer-Gesellschaft Nr. 16
    Mühlhausen 2011, 53 Seiten, 5 Abb., ISBN 978-3-935547-45-1
    3,00 €
  17. Monika Lücke und Wilfried Matzdorf
    Der geprägte Reformator.
    Thomas Müntzer in der Numismatik. Herausgegeben von Thomas T. Müller
    Mühlhausen 2012, 208 Seiten, zahlr. Abb., ISBN 978-505-935547-50-5
    15,00 €
  18. Michael Grisko
    Thomas Müntzer in Film und Fernsehen.
    Erweiterter Vortrag auf der Jahrestagung der Thomas-Müntzer-Gesellschaft e. V. am 12.Mai 2012 in Mühlhausen/Thüringen
    Mühlhausen 2012, 116 Seiten, zahlr. Abb., ISBN 978-3-935547-52-9
    10,00 €
  19. Thomas Müntzer in Roman und Erzählung
    Günter Vogler zum 80. Geburtstag
    Mit Beiträgen von Siegfried Bräuer, Hans-Joachim Kertscher, Kathrin Pöge-Alder und Marion Dammaschke
    Mühlhausen 2013, 176 Seiten, zahlr. Abb., ISBN 978-3-935547-54-3
    10,00 €
  20. Ulrich Bubenheimer Thomas Müntzer und Wittenberg
    Mühlhausen 2014, 64 Seiten, ISBN 978-3-935547-59-8
    4,00 €
  21. Volker Honemann und Mathias Henkel
    Tradition und Erneuerung
    Mittelalterlicher Hintergrund der Gottesdienstreform Thomas Müntzers in Allstedt
    Mühlhausen 2015, 74 Seiten, ISBN 978-3-935547-62-8
    5,00 €
  22. Rüdiger Schmitt
    Nebukadnezzars Traum von den vier Weltreichen und die Auslegung des Danielbuchs in der „Fürstenpredigt“ Thomas Müntzers
    Mühlhausen 2015, 156 Seiten, ISBN 978-3-935547-63-5
    8,00 €
  23. Thomas T. Müller
    Thomas Müntzer im Bauernkrieg
    Fakten – Fiktionen – Desiderate
    Mühlhausen 2016, 68 Seiten, ISBN 978-3-935547-67-3
    5,00 €
  24. Thomas T. Müller (Hrsg.)
    Umstrittene Empörung. Zur Gewaltfrage in der frühen Reformation.
    Studien zu Thomas Müntzer, Andreas Karlstadt, Hans Hut, Philipp Melanchthon und Martin Luther.
    Hans-Jürgen Goertz zum 80. Geburtstag
    Mühlhausen 2017, 112 Seiten, ISBN 978-3-935547-72-7
    10,00 €
  25. Joachim Bauer und Stefan Michel
    Alternative Predigt?
    Beobachtungen zur kursächsischen Predigerlandschaft neben Luther, Karlstadt und Müntzer bis 1525.
    In memoriam Siegfried Bräuer (1930-2018)
    Mühlhausen 2018, 54 Seiten, ISBN 978-3-935547-75-8
    5,00 €

Diese Publikationen sind per Post (Thomas-Müntzer-Gesellschaft, c/o Mühlhäuser Museen, Kristanplatz 7, 99974 Mühlhausen) oder per E-Mail (kontakt@thomas-muentzer.de) direkt bei der Thomas-Müntzer-Gesellschaft zu bestellen.

Folgende Bücher sind nur über den Buchhandel zu beziehen:

Thomas T. Müller
Bauernkrieg nach dem Bauernkrieg.
Die Verwüstung der Mühlhäuser Dörfer Dörna, Hollenbach und Lengefeld durch Eichsfelder Adel und Klerus

Duderstadt 2001, 180 Seiten
ISBN 3-932752-77-5

14,00 €
Herausgegeben von Günter Vogler
Bauernkrieg zwischen Harz und Thüringer Wald
Stuttgart 2008, 526 Seiten (27 Beiträge, von 17 Autoren sowie Bibliographie und Register)

ISBN 978-3-515-09175-6

80,00 €
Marion Dammaschke und Günter Vogler
Thomas-Müntzer-Bibliographie (1519-2012)
Bibliotheca Dissidentium Bd. 28

Baden-Baden 2013, 536 Seiten, 18 Abbildungen
ISBN 978-3-87320-733-2

128,00 €
Hans-Jürgen Goertz
Thomas Müntzer: Revolutionär am Ende der Zeiten
Eine Biographie

München 2015, 352 Seiten, 25 Abbildungen und eine Karte
ISBN 978-3-406-68163-9
C. H. Beck Verlag

24,95 €
Siegfried Bräuer und Günter Vogler
Thomas Müntzer: Neu Ordnung machen in der Welt
Eine Biographie

Gütersloh 2016, 542 Seiten, mit zahlreichen Abbildungen
ISBN 978-3-579-08229-5
Gütersloher Verlagshaus

58,00 €

 

Die Thomas-Müntzer-Gesellschaft e.V. wurde am 26. Mai 2001 als eingetragener Verein in Mühlhausen/ Thür. gegründet und dessen Gemeinnützigkeit anerkannt.

Der TMG gehören gegenwärtig Historiker, Theologen, Archivare und andere Interessenten aus Thüringen, anderen deutschen Bundesländern und acht europäischen und außereuropäischen Staaten an.

Aus der Satzung der Gesellschaft:

Aufgaben und Ziele (§ 2)

Die Aufgaben und Ziele der Gesellschaft bestehen darin,

1. Thomas Müntzers Leben und Werk und deren Bezüge zu Reformation und Bauernkrieg sowie deren Rezeption in der Geschichte zu erforschen und die Ergebnisse der Öffentlichkeit zugänglich zu machen,

2. die Zusammenarbeit mit wissenschaftlichen Einrichtungen und Vereinen zu fördern, Kolloquien zu veranstalten, Publikationen heraus zu geben und weitere sachdienliche Veranstaltungen zu organisieren.

Mitgliedschaft (§ 4)

Mitglied der Gesellschaft kann werden, wer das 18. Lebensjahr vollendet hat, daneben auch juristische Personen sowie nicht rechtsfähige Vereinigungen.

Mitgliedsbeitrag
Der Jahresbeitrag für Mitglieder der Gesellschaft beträgt entsprechend der Beitragsordnung 20 Euro für Einzelpersonen und 40 Euro für juristische Personen. Spenden sind willkommen.

Sie können hier einen Mitgliedsantrag herunterladen. [Word, 35 kB]

Vorstand der TMG

  • Dr. Thomas T. Müller, 
    Vorsitzender,
    Direktor der Mühlhäuser Museen, Kristanplatz 7, 99974 Mühlhausen
  • Prof. Dr. Hans-Jürgen Goertz, 
    Stellv. Vorsitzender,
    Hexentwiete 42 B, 22559 Hamburg
  • Dr. Antje Schloms, 
    Schriftführerin,
    c/o Stadtarchiv Mühlhausen, Ratsstraße 25, 99974 Mühlhausen
  • Sarah Lösel M.A., 
    Kassenwart,
    c/o Mühlhäuser Museen, Kristanplatz 7, 99974 Mühlhausen

Beisitzer:

  • Dr. Gunter Görner (Mühlhausen)
  • Martin Sünder (Mühlhausen)
  • Prof. Dr. Günter Vogler (Erkner)

Kontaktadresse

Thomas-Müntzer-Gesellschaft e.V.
c/o Mühlhäuser Museen
Kristanplatz 7, 99974 Mühlhausen/Thüringen
Tel.: +49 3601 / 85 66 – 0.
Internet: www.thomas-muentzer.de
e-mail: kontakt@thomas-muentzer.de

Wer wir sind

Die Adresse unserer Website ist: https://www.thomasmuentzer.de.

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